はじめに

<歴史学入門 ーなぜ歴史学を学ぶのか>

“ 我々が、「歴史」を学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。

 最初に,「世界史」を学ぶ意味から考えて見たいと思います。

まず最初に、思い浮かぶことは「事実」としての過去から現在に至る「世界の歴史」を知ることは、この世界そのものを理解することにつながるということです。

例えば、宗教を一つの例に取れば、キリスト教の歴史を学ぶことにより、ヨーロッパの一面をより深く理解することができますし、同様にイスラーム教の歴史を学ぶことで、西アジア(中近東)の理解も深まります。

そして、両者の歴史的な関係を学ぶことで、両者の対立の歴史、さらには現在の中東情勢などもより深く理解できるようになります。

また、ヨーロッパのアジア進出を例に取れば、「世界の一体化」といわれるように、各国の歴史とその歴史的な関係は密接に結びついていき、(日本も明治維新以後世界史の一部として、もちろんそれ以前にも中国・朝鮮などとの関係はありましたが)現在の世界を形づくっていきます。

現在のグローバル化した国際状況のもとでは、多くの経済活動や情報などは、我々の国内の政治や経済に直接に多くの影響を与えていることは言うまでもありません。

このように各国の歴史や、お互いの歴史的な関係を知ることは、今の国際社会や、我々を取り巻く現代の社会を正しく理解する一助となります。

さらに、視点を変えれば、過去の歴史を知り、自分が立っている位置を確認することは、「自分自身を知る」という哲学的な問題にも関わってきます(我々はどこから来て、どこに行くのか)。

最後に、民族という問題を考える際にも、各国の歴史を学ぶことは、そこに住む人々に対する理解やあるいは共感を深めて、できるだけ偏見を排して客観的に他国(他の人)を見る目を養うことができるようになると思います。

 次に、「歴史を学ぶ」ための方法論ですが、これには二つの方法があると思います。

一つは、「時間軸をずらす」ことです。

ヨーロパに例をとれば、古代ギリシア・ローマの奴隷制、中世ヨーロッパの封建制、近世・近代市民社会、こうした時代を知ることで、今の現代を相対化できます。

もう一つの方法は、「空間軸をずらす」ことです。

同時代の中国、朝鮮、中近東、ヨーロッパ、アメリカなどの空間を知ることで、同じように自己を相対化できます。

こうした方法で、先史時代から現代の地球上の歴史を全体的に俯瞰的に見ることで、現代の世界をより正しく認識することが可能になると思います。

最後に、従来、我が国の「世界史」教育に陥りがちだったヨーロッパ中心史観(もちろん、それを改善しようとする試みはなされてきてはいますが)から脱却する必要があります。

例えば、イスラームから見た「世界史」、遊牧民から見た「世界史」、アフリカから見た「世界史」、また他にも従来「周辺」と考えられていた地域から見た「世界史」など、様々な異なった視点から、色々な角度から「世界史」を学ぶことが必要です。

それによって、現在私たちが当たり前のように思っている「世界史」の理解が決して絶対ではないことがわかると思います。”

*上記の文章は、私が高校の「世界史」の最初の授業に生徒に配布したプリントをもとに、新しく書き直したものです。

(2018. 10. 19)

序章

[序]先史時代

※ダーウィン(英生物学者)

“人類はサルの一種から進化した”
=進化論 『種の起源』(1859)

1.人類

特性:直立歩行、道具の製作、火の使用、言語の使用

(1)人類の進化

① 猿人(約700万年前)
サヘラントロプス(2001年チャドで発見)
ラミダス猿人(1992年エチオピアで発見)
アウストラロピテクス(群)(1924年南アフリカで発見)

特徴—直立歩行、打製石器(礫石器)を使用、群社会(ホルド)を形成

② 原人(約240万年前)
ホモ=ハビリス(1964年タンザニアで発見)
ジャワ原人(ピテカントロプス=エレクトゥス)(1891年ジャワ島で発見)
北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)(1929年アンダーソン周口店で発見)

特徴—火の使用、言語の使用、道具の使用(打製石器=石核石器:握斧)

③ 旧人(約60万年前)
ネアンデルタール人(1856年ドイツで発見)
ハイデルベルク人(1907年ドイツで発見)
スウォンズコーム人(1936年イギリスで発見)

特徴—打製石器(剥片石器)の製作、埋葬の風習(宗教)、衣服の着用

④ 現生(新)人類—後期旧石器時代(約20万年前)
クロマニョン人(1868年フランスで発見)   
グリマルディ人(1901年イタリアで発見)
周口店上洞人(1935年北京原人の上の洞窟で発見)

特徴—骨角器の製作。洞窟絵画
ラスコー(1940年発見フランス)
アルタミラ(1879年発見スペイン

目的—狩猟の成功を願う呪術的作品か?

2.農耕と牧畜の始まり

○ 獲得経済から生産経済へー「 新石器革命」(英考古学者チャイルド)

(1) 旧石器時代(約500万年前から)
狩猟・漁猟
身分差のない原始社会
打製石器

(2) 新石器時代(1万年前から)
集団で移動 狩猟+農耕牧畜
集団で村を作る(定住生活)
磨製石器、彩文土器

3.発生地

① 西アジアー小麦・大麦の栽培、羊・山羊の飼育
ジャルモ遺跡イェリコ遺跡

② 東アジアー雲南(中国の南)・アッサム(インド)地方での栽培説
中国黄河流域で粟・米の栽培
長江下流域で犬・豚の飼育(家畜)

③ 東南アジアータロイモ・バナナ栽培(最古の説)

④ アメリカ大陸—トウモロコシジャガイモトマト、さつまいもなど

*稲(米)、小麦、大麦は 保存ができる

4.古代文明のおこり

(1) 四大文明−エジプト・メソポタミア・インダス・中国(黄河)

なぜ、大河のまわりに文明がおこったのか?

農耕の発展→ 灌漑(田畑に水を引くこと)農法の始まり
治水・灌漑工事は、共同作業→指導者の登場
指導者は種・あまりの食料(共同の財産)の管理者
青銅器 (銅とスズの合金)の使用
→生産の増加、余剰生産物を神に捧げる
指導者は祭りを執り行い、戦争を指揮
分業の成立→階級の成立(支配する者:国王・貴族;支配される者:民衆)
  
○ 文明(Civilization)とは何か。 
—19C.初頭のギゾー(仏歴史家)の造語
ラテン語「キヴィス」「キヴィタス」=“都市化”

法や制度が生まれる→国家の成立
文字の使用→歴史(ヒストリー;語源はヒストリア:ギリシア語)時代。
文字・青銅器の使用=文明の誕生

(2) 文明
一定の社会で観察される政治的、社会的、経済的、宗教的、文化的現象の総体
文化(Culture)との違いは?

(3) 文化
文明より主観的な領域。精神と美的感覚を高めるために、美術、文芸、学問を通して、人が修得すべき知識の総体。

○ 都市文明の指標(めじるし)

政治組織と階級制度の発生。
交易の発展と規模の拡大。
非農業的専従者(王、官僚、神官、軍 人、商人、職人など)の存在
彼らの居住空間としての都市(周壁をめぐらし、神殿を中核とする)の存在
文字の使用、冶(や)金術、交通手段の発達。

○ 人種・語族・民族の定義

人種―身長・頭の形・皮膚の色・毛髪・眼球の色・血液型などの生物学上の特徴で人類の集団を分類する概念。
<白色人種(コーカソイド)、黄色人種(モンゴロイド)、黒色人種(ネグロイド)>

語族―同系統の言語を話す人間集団を歴史学の上では語族と称す。

民族―言語をもっとも主要な基礎とし、宗教や社会習慣など、文化的伝統を同じくする集団をさして用いる概念。

(2018. 10. 19)


第一部:古代

第1章 オリエントと地中海世界

[ 1 ]古代オリエント世界

※Oriens=日の昇るところ

1. メソポタミ
(ティグリス・ユーフラテス両河:現在のイラク)
「肥沃な三日月地帯」(ブレステッドの言葉)の東部
 
(1)シュメール人の都市国家
(前3,500年〜前2,500年)
 「歴史はシュメールから始まる」
青銅器文明
民族系統不明
ウルク・ラガシュ・ウンマなどの都市国家が誕生
全盛期:ウル第一王朝(各同盟と同盟関係)<現ムカイヤル>
神殿都市―王、神官、役人、戦士などの階級が誕生
聖塔(ジグラット:神殿)を建築
神権政治が行われるー王(ルーガル、エンシ))=最高神官<多神教>
楔形文字(象形文字)—書記(エリート官僚)により、粘土板に記録
(貢納文書など)
円筒印章—物品の所有権を明示
原始民主制の存在が認められる(ヤコブセン説
→発展せず(大河の治水事業の必要性から)
※ 都市の指標(目印)の存在

(2)アッカド王国(シュメール・アッカド王朝
(3)サルゴン1世(セム系アッカド人:キシュから独立)
 →シュメール人を征服・支配(前24世紀頃)
 —メソポタミア最初の統一王朝
4代ナラム=シン「四(方世)界の王」を称する(全盛期)
(東:エラム、西:シリア、南:シュメール、北:アッシリア)
—交易路の直接確保が目的
→グチ人(ザクロス山中の蛮族<山岳の毒蛇>)により滅亡(BC21C)

(4)ウル第三王朝の成立
ウル=ナンム王によりメソポタミアの再統
一ウル=ナンム法典 (世界最古の法典)の制定
→エラム人(東から)、アムル人(西から)の侵入により滅亡

(5)バビロン第一王朝(前19世紀〜前16世紀:古バビロニア王国)
セム系アムル人の建設 
都:バビロン
ハンムラビ王(前18世紀頃:6代)
―メソポタミア全土を統一
ハンムラビ法典(アッカド語
)―同態復讐法“目には目を、歯には歯を”
→身分により刑罰に差がある(三階級)
=シュメール法の集大成

(6)メソポタミア文化
 楔形文字
―シュメール人、アッカド人、ヒッタイト人などが使用
多神教―シャマシュ(太陽神)、シン(月)、イシュタル(金星)
マルドク(バビロンの守護神)
 太陰暦―月の満ち欠けの周期
(朔望月を1カ月:12朔望月=1年:約354日)太陽太陰暦
―太陰暦を基本に太陽暦を併用:バビロン)
 一週七日制―新月(朔月)・上弦の月(半月)・満月・下弦の月(半月)
=一サイクル(変化の間が約7日×4=1カ月は28日)
それぞれの日に守護星の名称(日:シャマシュ、月:シン、金:シュタル)
 占星術
 六十進法―太陽を観測して、全円周を360等分
 ギルガメッシュ叙事詩
―ウルクの王の英雄伝説
※洪水伝説―ノアの箱舟の物語の原型

2. インド=ヨーロッパ語族の南下(前1650年頃)

 *馬と戦車が特徴

(1) ヒッタイト人(ハッティ:先住民)
―小アジア(アナトリア高原)に建国
 都:ハットゥシャ(現ボアズキョイ)
―発掘者ヴィンクラー(独)
 鉄製武器を使用(製鉄技術を独占)
・古王国
バビロン第一王朝(古バビロニア王国)を滅ぼす
―ムルシリウス1世により(前1595年)
・新王国
ミタンニを打ち破る(前1360年:シュピリウマ<ス>1世:全盛期)
シリアに進出し、エジプトと争う
―カデシュの戦い(前1286年)
=オリエント最大の戦車戦
=ヒッタイト王ムワタリ
対エジプト王ラムセス2世(新王国)
→平和同盟条約(1269年:世界最古の国際条約)
「海の民」(民族不明)により滅亡
(前1190年頃:複合説)
→製鉄技術の広がり

(2) ミタンニ人(民族不明)
メソポタミア北部を支配―サウシュタタル王(前15C.中頃)
先住民フルリ人支配(人口の大半)→
一部シリア・エジプトへ逃れる
(ヒクソス説)
*最近では支配層もフルリ人説
都:ワシュカンニ
馬の調教で有名
2輪軽戦車(6本のスポーク)を使用
ヒッタイトに破れ属国→再興→最終的にアッシリアにより滅亡

(3) カッシート(カッシュ)人(民族不明)
ヒッタイト撤退後、ザグロス山岳地帯からバビロンに侵入
→メソポタミア南部(バビロニア)を支配(前1600年頃〜前1150年頃)
=バビロン第三王朝を建国
都:バビロン
エジプト・ミタンニ・ヒッタイトと抗争→エラム人により征服される

3. エジプト史(ハム系:約31王朝)

「エジプトはナイルのたまもの」(ヘロドトスの言葉)

(1)初期王朝時代
上エジプト(南)と下エジプト(北デルタ地帯)―前4000年頃
ノモス(都市国家)の成立(前4千年紀:上22、下20)
南北両王国時代—官僚機構の整備。中央主権化
前30C.メネス(ナルメル)王(上)、
上下エジプトを統一
マスタバ(階段ピラミド)が作られる。

(2)古王国時代(前2700〜2200年頃:第3〜第6王朝)
新都:メンフィス
ファラオ(王:神の化身、太陽神ラーの化身)の登場→神権政治を実施
ピラミッド(第4王朝)—ギザ(ギゼー)の三大ピラミッド
(最大クフ王、カフラー,メンカウラー)、ミイラ、スフィンクス
ファラオを頂点とする中央集権的官僚制国家

<第一中間期(第7〜第10王朝)—分裂と無秩序の時代>

(3)中王国時代(前2000年初〜:前17世紀後半:11〜12王朝)
都:テーベ(現:ルクソール;守護神:アメ(モ)ン)
神官は、太陽神ラーをも採用し、アメン(アモン)・ラーという神を創造。
オシリス信仰(死者・復活の神)の普及
—死者の書(パピルスに記録)
※エジプト人の人体表現
オベリスク(記念碑)の発明
クレタ島との貿易—軍隊と隊商との遠征の時代
ヒクソス(セム系遊牧民族?フルリ人説)の侵入(前17世紀頃)—馬と戦車→滅亡

<第二中間期(第13〜第17王朝)—ヒクソスの支配>

(4)新王国時代(前16C〜前11C:18王朝〜20王朝)
ヒクソス追放
都:テーベ
トトメス3世(18王朝)—帝国領土最大(シリア進出)
アメンホテプ4世(イクナトン:18王朝)の宗教改革—
アトン神(唯一神)を強制、アメン神官団を排除、王権強化
テル=エル=アマルナに遷都
アマルナ時代—写実的美術
アマルナ文書(前14世紀の外交文書:楔形文字)
死後、旧体制へ復帰
アマルナ一神教→ヘブライ人の信仰に影響を与える
ツタンカーメン王(18王朝)の信仰復帰、都テーベへ戻る
王墓の中心は、王陵の谷へ移る。(墓は1922年に発見)
ラムセス(ラメス)2世(第19王朝)
ヒッタイトと抗戦(前13C)
—カディシュの戦い、休戦
モーゼの「出エジプト」(前1230年頃)
—ヘブライ人の脱出
ラムセス3世(20王朝)
「海の民」の侵入を撃退(前1191年)

<末期王朝:前1000年頃〜前7世紀中頃:第21〜第31王朝>

クシュ人の支配
―クシュ王国を建国=黒人王国:前8世紀〜前7世紀頃:第25王朝)
アッシリアの進出、滅亡
→アッシリアのオリエント統一
アッシリアの滅亡後、第26王朝復活
最終的に、アケメネス朝ペルシアにより征服される。
※アレクサンドロス大王により征服(前322年)

(5)文化
多神教(最高神太陽神ラー、アメン(アモン)・ラー信仰の流行)
神聖文字(ヒエログリフ:象形文字)
—シャンポリオン(仏)解読、ロゼッターストーンにより
(ナポレオンのエジプト遠征で発見)
パピルス(ペーパーの語源)
太陽暦(ローマへ:カエサルにより)
測量術―幾何学の発達
ミイラー魂の不滅を信じる
「死者の書」―死後の世界の案内書


4. 地中海東岸の諸民族

※セム系:前12世紀:シリア・パレスチナ地方
※「海の民」の活動→エジプト・ヒッタイトの勢力後退

(1)アラム人(前10世紀〜前8世紀:前9世紀全盛)
 ダマスカス中心―シリア地方。小都市国家の分立
 内陸貿易に活躍(ラクダによる隊商貿易)
 =地中海沿岸〜メソポタミア〜中央アジア〜中国へ
  同上〜ペルシア湾(紅海)からインドへ
 アラム文字(語)―西アジアの国際商業語になる→東方へ伝播。
 →アッシリア帝国に征服される(前8世紀頃)

(2)フェニキア人(前10世紀〜前8世紀)
 地中海貿易で活躍
 ビブロス・シドン・ティルスなどの海港都市が中心
 カルタゴを建設(ティルスによる植民都市)(前815年建設)
 →カルタゴは、その後地中海の制海権を握る
 ギリシア人にアルファベット(表音文字)を伝える
 →アッシリアに服属(海軍として活躍)

(3)ヘブライ人(イスラエル人と自称:遊牧民:前1500年頃)
 ユーフラテス河上流→パレスチナに定住(12支族)
 →一部はエジプトへ移住(ヒクソスのエジプト支配の時期:前17世紀)
 出エジプト(前1250年頃)―預言者モーセにより
 十戒を神から受ける(シナイ山で)
 ヤハウェ神(唯一神)の信仰の誕生
 ペリシテ人(製鉄技術を保有)との戦い→王政へ移行
 ヘブライ王国の建国(初代王:サウル:前11世紀末)
 都:イェルサレム
 2代ダヴィデ・3代ソロモン
=全盛期「ソロモンの栄華」(前10世紀中頃) ヤーヴェ神殿の建設

 ソロモンの死後、王国は南北に分裂(前922年頃)
 イスラエル王国(北:都サマリア)の建設
 →アッシリア(サルゴン2世)により征服される(前722年)
 ユダ王国(南:都イェルサレム:ダヴィデ王家のユダ族の支配)
 →新バビロニア(ネブカドネザル2世)により征服される(前722年)
 →バビロン捕囚(住民は全員バビロンに強制移住:前586年〜前538年)
 →アカイメネス朝ペルシア(キュロス2世)により解放される
 →イェルサレムへ帰国後、神殿を再建

☆ユダヤ教(ユダヤ人)の成立→後のキリスト教の母胎となる
 ヤハウェ神の一神教
 選民思想を抱く
 メシア(救世主)を待望
 最後の審判の教え←ゾロアスター教(ペルシア)の影響
 旧約聖書(ユダヤ教の聖典:ヘブライ語で)の成立(〜前1世紀頃)
 ―神話・伝承・預言者の言葉・神への賛歌が記されている

 

5. オリエント世界の統一

(1)アッシリア帝国(セム系)―メソポタミア北部に建国
 都:アッシュール
 ティグラトピレセル3世→バビロンを征服(前744年)
 =メソポタミアの統一(貿易ルートの確保が目的)
 サルゴン2世→イスラエルを征服(前722年)
 セレナヘリブ王―新都ニネヴェを建設
 アッシュルパニパル王の時代―最盛期
 エジプトを征服(前664年)=オリエントをはじめて統一
 大図書館の建設(楔形文字の集大成:約2万枚収集)
 王国は官僚と軍隊が二本柱。駅伝の制を施行(交通網を整備)
 
 属州―総督を派遣して、国王が直接統治
 服属地―服属した王に統治を任す(間接統治)
 →異民族の反乱(新バビロニアとメディア連合軍)により滅亡
(前612年)

(2)四国分立時代
 ・リディア(印欧系)―小アジアに建国
  都:サルディス
  世界最古の鋳造貨幣を使用
 ・新バビロニア(カルディア:セム系)―アッシリアの大部分を領有
  都:バビロンーバベルの塔(ジッグラット)を建設
  ネブカドネザル2世時代―最盛期
  →バビロン捕囚を行う
 ・ネディア(印欧系)―イラン高原に建国
  都:エクバタナ
 ・エジプト(エジプト語系)―サイス朝(第26王朝)

(3)アカイメネス(アケメネス)朝ペルシア(前550年〜前330年)
  印欧系イラン人
 キュロス2世、メディアから自立して、建国
 都:スサ
 →メディア(前550年)、リディア(前546年)、新バビロニア
(前539年)を征服
 カンビセス2世、エジプトを征服(前525年)→オリエントの統一
 ダレイオス1世(全盛期:前522〜486年)
 新都:ペルセポリス造営
 東はインダス川、西はエーゲ海北岸までの領域を支配(最大版図)
 中央集権体制の確立
 ・サトラップ制―各州に知事を派遣して、地方の豪族を採用
 ・「王の目」「王の耳」という監察官を巡察させる
 ・ゾロアスター教を信仰―異民族の信仰・自治は容認
 ・イオニア諸都市(ギリシア人)の反乱を鎮圧→ペルシア戦争へ
 
 ダレイオス3世←アレクサンドロス大王により滅亡(前330年)

(4)宗教
 ゾロアスター教(拝火教:中国では景教と呼ばれる)
 ―アカイメネス朝の国教となる
 経典はアヴェスター
 アフラ=マズダ(光明神:善神)とアーリマン(暗黒神:悪神)の2神
 →この世を両神の闘争ととらえる
→「最後の審判」の思想が特徴

  
 

6.イラン文明の成立(印欧語族:ペルシア)
※ヘレニズム時代(アレクサンドロス大王の東方遠征)
→アレクサンドロスの死後→セレウコス朝シリア王国、建国
(1)パルティア王国(前3C.〜後3C.:イラン系遊牧民族)
—中国名では「安息」(『史記』大宛伝)と呼ばれる
建国者:アルサケス
セレウコス朝から自立—イラン高原東北部に建国
東西交易(シルク=ロード)で繁栄
  ミトラダテス1世の時代―全盛期(前2C.後半)
都:クテシフォン
セレウコス朝の滅亡後(前63年)は、ローマと抗争
三頭政治(ローマ)のクラッススを戦死に(前53年:カルラエの戦い)ササン朝ペルシアにより滅亡(後224年)

(2)ササン朝ペルシア(後3C.〜7C.:イラン系)
建国者:アルダシール1世—イラン人の民族意識が高揚
都:クテシフォン
  シャープル1世(3C.半ば)
・ローマ帝国と抗争—軍人皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にする
   =エデッサの戦い(260年)
・クシャナ朝を破りインダス川流域へ、バクトリアを併合
   ホスロー1世の時代―全盛期(6C)
  ・突厥と結んでエフタル(中央アジアの遊牧民族)を滅ぼす(558年頃)  
  ・東ローマ(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス帝と抗争    
  →黒海沿岸へ進出

滅亡(651年)←イスラーム教徒の攻撃により
   =ニハーヴァンドの戦いにより(642年)

※ゾロアスター教を国教とする
※マニ教の成立(3C.前半)
—ゾロアスター教、キリスト教、仏教などを融合→禁止、迫害される

(2020/11/09)


[ 2 ] 古代ギリシア世界

1. エーゲ文明
—青銅器文明(前2000年頃〜前1200年頃)

(1) クレタ文明(前2000年頃〜前1400頃)―民族系統不明
クノッソス宮殿(前2000年頃:伝説の王ミノス、クレタ統一か)
―発掘者:エヴァンズ(英:1900〜41)
マリア・ファイストスなどの宮殿(遺跡)の存在
特徴:海洋文明(イルカの壁画など)
・開放的(城壁の不在)
オリエント的貢納国家
線文字A(未解読)の存在

(2) ミケーネ文明(前1600年頃〜前1200年頃:ギリシア人)
ミケーネ(ギリシア本土:獅子門など)
―発掘者:シュリーマン(独:1876:『古代への情熱』)
ティリンス・ピュロスなど小王国が分立
特徴:城塞・宮殿(軍事的)・トロス(円形墳墓)など
線文字B(英ヴェントリスの解読=ギリシア語)の存在
ミケーネ社会の構造
—オリエント的専制王国
(統一王権は成立せず)
官僚機構の存在
—王・貴族(ワナカ)、軍司令官(ラワケタ)・従士団(エケタ)
クレタ島を一時支配(前1500年頃)
前1200年頃、ミケーネなどは焼失し、滅亡
(原因:ドーリア人の侵入説、「海の民」説、複合説など)

(3) トロイア文明(前2600年頃〜前1200年頃:民族系統不明:小アジア)
トロイアー発掘者:シュリーマン(1871)
9層の遺跡の内、第7層がトロイア文明の時代)
→トロイア戦争(ホメロス『イリアス』に描かれる:ミケーネ諸王国の総力戦)により炎上

(4) ギリシア人の南下(印欧系)
①第一派(前2000年頃)−アカイア人(総称)、アイオリス人、イオニア人
→クレタ文明破壊、ミケーネ文明を形成
②第二派(前1200年頃)―ミケーネ文明破壊(?:複合説有力)
→暗黒時代(約400年)
―特徴:無文字社会、村落自治、人口激減、王宮経済崩壊→鉄器時代へ

2. 古代ギリシア

(1) ポリス(都市国家)の形成
アクロポリス(城塞)・アゴラ(公共広場)を中心に持つ
特徴:戦士=市民=農民
① 成立
—前8世紀頃、貴族(重装騎兵)を中心に、防衛のため集住(シュノイキスモス)により成立(アテネの場合)
② 同族意識
—自らはヘレネスと称し、異民族をバルバロイと蔑称
オリンポスの神々(ゼウス主神)、オリンピア競技、デルポイの神託、隣保同盟
③ 植民活動
―前8世紀頃から地中海・黒海沿岸に植民市(アポイキア)
ビザンティオン(現イスタンブール)、マッサリア(現マルセイユ)ネアポリス(現ナポリ)など

(2) スパルタ(ドーリア人)―ペロポネソス半島
前1000年頃、ドーリア人のラコニア侵入→前8・7世紀、メッセニア占領)
 征服型・軍国主義・リュクルゴス(伝説)の制度(2王政;エフェロイ;長老会)
① スパルティアタイ(市民)
―政治・軍事に従事
② ペリオイコイ(劣格市民:周辺住民)―商工業に従事、従軍の義務、参政権なし
③ ヘイロータイ(隷属農民:国有奴隷=征服された先住民)―農業に従事

(3) アテネ民主政の形成(イオニア人)
王政(バシレウス)
→貴族政(貴族は行政権と司法権を独占)
アルコン(執政官:行政職)―任期制(1年)、同僚制(9人)
アレイオパゴス評議会―アルコン経験の終身議員(貴族支配の牙城)
→平民の台頭(前7世紀頃)
=重装歩兵(ホプリーテス)の密集隊戦術(ファランクス)の活躍により
商工業の発展→武具価格の低下→自弁可能
① ドラコンの立法(前621年)
―慣習法の成文化(殺人法:故意と無為の区別)
② ソロンの改革(前594年)
―貴族と平民の対立を調停(調停者)
・負債の帳消し(重荷おろし:セイサクテイア)
・債務奴隷の廃止→市民の奴隷化を阻止
・財産(評価)政治(ティモクラティア)
―市民を4階級にわけ、権利と義務を定める。
(500メディムノス級・騎士級・農民級・労働者級)
③ ペイシストラトスの僣主政治(前561〜前528年)
平民の支持を得て、対立貴族を追放(クーデタ)
→独裁政治(テュランノス:僭主)
―自作農民の保護、文化政策(悲喜劇の上演)、ラウレイオン銀山の開発など
死後、息子ヒッピアスの暴政化(弟ピッパルコスの暗殺により)
→追放される(前510年)
④ クレイステネスの改革(前508年)―アテネ民主政の成立
・部族生の改革―貴族の基盤を切り崩すのがねらい
4部族(血縁似基づく)→10部族(地縁共同体であるデーモス(区)を基礎) 
―10部族はバラバラな3地域から1部族を構成
※家族→氏族(共通の祖先を持つ血縁集団)→部族(同一の出自を持つ集団)
・デーモス(区:146)を編制
・500人評議会を設置(各部族50人づつ)
・オストラキスモス(陶片追放)を導入
―僭主の出現を防止(6,000票獲得者、国外追放10年)

結果:重装歩兵として国防を担う有産市民(自作農民)が参政権を獲得

(4) ペルシア戦争(前500〜449年:ヘロドトス『歴史』)
① 原因―ペルシア支配に対するイオニア植民市(中心都市ミレトス)の反乱
→鎮圧される(アテネの支援)
② 経過
第1回(前492年:対ダレイオス1世)
―ペルシアのトラキア遠征、失敗
第2回(対ダレイオス1世)
・マラトンの戦い(前490年)
 ―アテネの将軍ミルティアデスの活躍、勝利
 ※テミストクレスの建艦(前486年:ラウレイオン銀山の鉱脈発見により)
第3回(対クセルクセス)
・テルモピュレーの戦い(前480年)
 ―スパルタ王レオニダス戦死
・サラミスの海戦(前480年)
 ―アテネの将軍テミストクレスの活躍、勝利(三段櫂船により)
・プラタイアの戦い(前479年)
 ―スパルタ・アテネ連合軍の勝利
③ 結果
・東方的専制政治に対するギリシア民主政治の勝利
・デロス同盟(アテネ盟主)を結成(前477年)
―対ペルシ防衛同盟(同盟ポリスは貢納金か軍船を提供)
・無産市民(下層市民:サラミスの櫂船で漕ぎ手として活躍)の発言権が高まる

(5) ペリクレス時代(将軍:ストラテーゴス:前443〜429年)
―アテネ民主政の完成
※エピアルテスの改革(前461年)
—アレイオパゴス評議会から権能を奪う
① 全成年男子市民(18歳以上)による直接民主政(婦人・奴隷を除く)
② 民会が最高機関(貧富にかかわらず一人一票:多数決:出席手当)
③ 将軍(民会選出)等を除いて、官職は抽籤・重任禁止・一年任期
(資格審査と執務報告の義務)
④ 裁判は陪審制度(秘密投票)
⑤ 役人や政治家の責任は弾劾裁判で追及(一般市民が収賄などを告発)
⑥ 奴隷制(家内奴隷など)に立脚
⑦ メトイコイ(在留外人)の存在
—市民権非所有・不動産所有禁止
⑧ ペリクレスの市民法(前451年)
―両親がアテネ市民のみ市民権獲得

※デロス同盟の金庫アテネへ移転(前454年)→パルテノン神殿など建設
=アテネの帝国主義化(同盟ポリスは貢納の義務、アテネの度量衡・貨幣など使用)
※アテネの推定人口(30〜32万人:所説有り)
市民:4〜5万人(家族:12〜15万人);メトイコイ:3〜4万人;奴隷:10〜12万人

(6) ポリスの変容
① ペロポネソス戦争(前431〜404年:トゥキュディデス『歴史』)
デロス同盟とペロポネソス同盟(スパルタ中心)との抗争
→ペリクレスの死後、アテネではデマゴーゴス(民衆指導者)のクレオンらの指導
→アルキビアデス提案のシチリア遠征の敗北
→アテネ、スパルタに降伏
※アテネ三十人僭主の支配→民主政回復(前403年:以後マケドニアの支配まで民主政安定)
※第2次アテネ海上同盟の結成(前377〜55年:約70のポリス)
② テーベの台頭
将軍エパメイノンダス、スパルタを破りギリシアの覇権を握る
(レウクトラの戦い:前371年:斜線陣)
② マケドニアの台頭
ピリッポス(フィリッポス)2世、アテネ(弁論家デモステネス)・テーベ連合軍を破る(カイロネイアの戦い:前338年)
→ピリッポス、コリントス同盟を結成(前337年)
→ペルシア遠征中に暗殺される

3. ヘレニズム時代

(1) アレクサンドロス大王の東方遠征(前334から24年)
① ギリシア人の植民市を建設
—アレクサンドリア(エジプト)など(前332年)
② アカイメネス(アケメネス)朝ペルシアを滅ぼす(前330年)
・イッソスの戦い(前33年)・アルベラ・ガウガメラの戦い(前331年)
・ダレイオス3世、暗殺される(前330年:滅亡)
③ ペルシ人とギリシア人の結婚を奨励
④ オリエント風の専制君主化(ペルシア王の後継者)
→アレクサンドロスの神格化(プロスキュネシス=拝跪例を強要)
※東西融合政策により、コスモポリタニズム(世界市民主義)を基調とするヘレニズム文化の誕生

(2) ヘレニズム3王国の誕生

アレクサンドロスの死後、ディアドコイ(後継者)戦争の勃発
(イプソスの戦い:前301年)
→ヘレニズム3王国の分立(いずれもギリシア系の武将により建国)
① アンティゴノス朝
—ローマにより征服される(前168年)
② セレウコス朝シリア
ー西アジアの大半を征服
都:セレウキア→アンティオキアへ
→バクトリア(ギリシア系)・パルティア(イラン系)の独立
→ローマにより征服される(前63年:将軍ポンペイウスにより)
③ プトレマイオス王朝エジプト
都:アレキサンドリア
古代エジプトの中央集権的支配と官僚制を受け継ぐ
エーゲ海の制海権を握り繁栄(穀物・パピルスなどの取引)
→ローマにより征服される(前30年:最後の女王クレオパトラ)

(2021/05/02)

[ 3 ] 古代ローマ 世界

1. ローマの建国
印欧語族のイタリア人が南下
(前1000年頃:鉄器)
→ラテン人が都市国家ローマを建国(ティベル川河畔:前8世紀中頃)
→前6世紀末(前509年)エトルリア人 の王を追放して共和政となる
※ローマの七人の王(初代ロムルス:5〜7代はエトルリア人の王)

2. 共和政の前期(貴族共和政)

(1)政治機構
・元老院(セナトゥース:終身:300人政務官経験者:貴族)
―国政の実権を握る(執政官に助言)
・執政官(コンスル:2名:貴族)
—最高官職(国事・軍事:任期1年)
・独裁官(ディクタトール:貴族)
―非常時(任期半年)
・民会(ケントゥリア民会)
—政務官の選挙や、政務官の提案に賛否
※第6代セルウィウス王の体制
―財産額に応じて市民の階級を分け、軍事義務を決る。百人隊(ケンツリア)ごとにまとまり、民会の投票単位となる。
※ケントゥリア民会(兵員会)・トリブス会(平民会)の存在
※「名誉の階段(階梯)」
=政務官の就任順序は慣例
財務官(国庫の管理)
→按察官(神殿・市場の監督)
→法務官(司法)→執政官

(2) 身分闘争
貴族(パトリキ=重装騎兵)が参政権独占
←→平民(プレブス=重装砲兵)が参政権を要求

<身分闘争史>

① 護民官の設置(前494)
←聖山事件により(平民のローマ市離脱)
―身体は神聖不可侵
(平民会議長10 人)
元老院・コンスルの決定に対して拒否権
② 十二表法(前 450)
一慣習法を成文化(ローマ最古の成文法)
内容一訴訟手続き、債務法
→奴隷として売却
③ カヌレイウス法(前445)
一貴族と平民の結婚を公認
④ リキニウス=セクスティウス法(前 367)
・コンスル (2 名)一人は平民から選出
→新貴族 ( ノ ビレス) の誕生
・公有地 の占有制限 (500 ユゲラ=約125 ヘクタール)
ー大土地所有の傾向に歯止めをかける目的
⑤ ホルテンシウス法(前287)
←平民のローマ市離脱(第 3 回)
一平民会の決議、元老院の承認なくとも国法となる。
(他のコミティア市民総会決議と同等の効力をもって市民全体を拘束する)
※ただし、元老院の権威と実権はゆるがない。

(3)イタリア半島の統一
・ラティウム諸都市を征服(ローマ周辺のラテン人国家:〜前338)
・サウニウム人を征服(アペニン山中:3回:前343〜290)
・南イタリアのギリシア人(マグナ・グレア)を征服―タレントゥム陥落(前227)

“分割して統治せよ(Divide et Impera)”
同盟市(ソキイ)
―自治、市民権なし、軍役義務
自由市(自治市)
―自治、ラテン市民権、軍役義務
植民市―自治、市民権あり、軍役義務

3. 共和政の中期

(1) ポエニ戦争(前264〜前146)
―カルタゴ(フェニキア植民地)と西地中海の覇権を争う
・第1回(前264〜241)
―ローマ勝利、シチリア島獲得(属州;プロヴィンキア)
→総督を派遣、徴税請負制(騎士階級)を実施
・第2回(前218〜201)
―ハンニバル(カルタゴ将軍)戦争
カンネーの戦い(前216:ハンニバルの勝利)
ザマの戦い(前202:ローマ将軍大スキピオの勝利)
→イベリア半島を獲得(属州ヒスパニア:現スペインを設置:前197)
※東方進出:マケドニア(前214〜146)、シリア(前192〜189)など属州に併合
・第3回(前149〜146)
―カルタゴ滅亡(ローマ将軍章スキピオにより)
→ローマの地中海支配の基礎が確立。
・結果
属州の拡大―安価な穀物のローマへの流入
→中小農民(重装歩兵)の没落(長年の従軍と耕地の荒廃により)
ラティフンディウム(大土地所有制と奴隷制)の発展
→農民は「パンとサーカス(見世物」を要求して、プロレタリア(無産市民)・「遊民」として都市へ流入。
※プロレタリアー公共建築や職人仕事で労働する人々

(2) グラックス兄弟の改革
(前133:兄ティベリウス;前123 弟ガイウス)
リキニウス法(大土地所有の制限)の復活を試みる→自作農民の創設
=重装歩兵軍団の再建が目的→兄弟は暗殺され、改革は失敗に終わる

4. 共和政の末期(内乱の百年)

(1) 閥族派(オプティマティス)
—元老院・高官を独占
←→平民派(ポプラレス)の対立
※クリエンテーラ関係=パトロヌス(保護者)とクリエンテス(庇護民)の存在
※ノビレス(新貴族)の成立

(2) マリウス(コンスル・将軍)の兵制改革(前107)
―無産市民を志願兵(私兵)として組織
→マリウス(平民派)とスラ閥族派の対立→最終的にスラの勝利

(3) 三つの戦争
・ユグルタ戦争(前111〜105)
―ヌミディア王の反乱、マリウスにより鎮圧
・キンブリ=テウトニ戦争(前113〜101)
―ゲルマン人の侵入
・同盟市戦争(前191〜88)
―イタリア半島の同盟市の反乱
 →同盟市にローマ市民権を与える(都市国家としての性格を失う)

(4) スパルタクス(グラディアトール:剣奴)の反乱(前73〜71)
―南イタリアの奴隷反乱→鎮圧される(クラスッス・ポンペイウスらにより)

(5) 第1回三頭政治(前60〜53)
―元老院に対抗(密約にて国政を分担)
・ポンペイウス(スラの後継者)
→セレウコス朝を征服(前63)
・クラスッス(騎士階級)
―パルティア(シリア)遠征にて戦死(前53)
・カエサルーガリア(現フランス)遠征、平定(前58〜51)して属州に編入
→ポンペイウス(元老院と結ぶ)を破る(前48:ファルサロスの戦いにて)
→エジプトへ(クレオパトラとの出会い)
→終身独裁官(前46〜44)・インペラトール(最高軍司令官)就任
ユリウス暦(太陽暦:12カ月)を採用(前45)
→ブルートゥス(共和派)・カッシウスらにより暗殺される(前44)
 
(6) 第2回三頭政治(前43〜31)
・オクタヴィアヌス(カエサルの養子)
―ガリア・イスパニア(現スペイン)を管轄
・アントニウス(カエサルの部下)
―東方属州を管轄
・レピドゥス(アントニウスの部下―北アフリカを管轄
→オクタヴィアヌスとアントニウスの対立―アクティウムの海戦(前31)
=オクタヴィアヌス対アントニウス・クレオパトラ(プトレマイオス朝エジプト)
→オクタヴィアヌスの勝利→プトレマイオス朝の滅亡(前30)
=ローマによる地中海世界の統一

5. 帝政の前期
(パックス・ロマーナ=ローマの平和:前1世紀後半〜後2世紀後半)
 
(1) プリンキパトゥス(元首政)
―オクタヴィアヌスと元老院の共同統治
アウグストゥス(尊厳者)の称号を、元老院より与えられる(前27)
プリンケプス(第一の市民)を自称―共和制の伝統を尊重(事実上は帝政)

(2) トイトブルクの戦い(後9)
―ゲルマン人との戦いに敗北
→ゲルマン人との国境が画定(ライン・ドナウ川)
→リメス(長城)を築き、専守防衛(ローマ防衛:「堅い殻、やわらかい核」)

(3) 暴君ネローキリスト教徒を迫害(ローマ大火により:64)
→近衛兵により暗殺される(ユリウス・クラウディウス家断絶)

(4) 五賢帝時代 (I 世紀末~2 世紀末)
=ローマ帝国最盛期
※「人類史上最良の時代」 (18世紀の歴史家ギボンの言葉)
①ネルヴァ(位96 〜98)
一元老院議員、養子相続
②トラヤヌス(位 98:ヒスパニア出身)ーダキア征服(現ルーマニア)
=ローマ領土、最大となる
③ハドリアヌス(位 117:ヒスパニア出身:ギリシア愛好家)
―ブリタニア(現イングランド)の北境にリメス(長城)を建設
④アントニヌス=ピウス(位 138 〜161:ガリア出身) =敬虔なる者
―内政に尽力、統一を強化
⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌス (位 161〜180)
ストア派 の哲学者 (哲人皇帝)
『自省録』(ギリシア語)を著す
大秦王安敦として『後漢書』に記される
→ゲルマン人と戦い戦死、息子コモンドゥスの即位
※当時元老院議員の 1/2 は、属州出身者によって占められる

7.  帝政の末期 (3 世紀以降)

(1) ディオクレティアヌス帝 (284〜305 )ー内乱終結
・四分統治(テトラルキア:東正帝)
・都:ニコメディア
・皇帝礼拝 の強制→ キリスト教徒大迫害 (303 年)
・ドミナートウス(専制君主制)を実施
・オリエント風の官僚制を整備(脆拝礼を要求)
・ゲルマン人などの傭兵隊を整備
・元老院は有名無実化

(2) コンスタンティ ヌス帝 (306 〜337)
・キリスト教を公認ーミラノ勅令 にて (313)
・帝国を再統一 (324)
← リキニウス帝を破る
・ニケーア公会議 でキリ ス ト教の教義を統一 (325)
アタナシウス派一正統と認められる。教義は「三位一体」説
=父なる神、子なるイエス、精盪は一体
←→アリウス派 (イエスに人間性を認める)は異端とされる
→アリウス派は、ゲルマンヘ布教活動
・コンスタンティノープル(ビザンティオンを改称)へ遷都 (330)
・コロヌス土地定着強制法を施行 (332) →中世の農奴制へ

(3) ユリアヌス帝(背教者: 361〜63)
・異端信仰(ミトラ教)、キリスト教を再禁止→ササン朝と争い、戦死
※ゲルマン人の大移動の開始 (375 頃)

(4) テオ ドシウス 帝 (379〜95)
・キリスト教を国教化( 392)
一異教の祭儀 (オリンビ ア競技など)禁止
・帝国を東西に分裂 (395)
一遺言にて東を(長男アルカディウス)に、西を(次男ホノリウス)に与える

西ローマ帝国の滅亡 (476) ←ゲルマン人傭兵隊長(オ ドアケル)により
※東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその後、一千年生き残る(395〜1453)

<キリスト教の成立>

〇 イエスの出現
古代のパレスティナ(ユダヤ人)
—アウグストゥ]時代にローマの属州(ユダヤ王ヘロデの支配)
→イエス誕生(ベツレヘム)と洗礼(ヨハネより)
 
〇 イエスの教え、布教(後28年頃)
パリサイ派(モーゼの戒律や儀式を重視したユダヤ教徒)を批判
民族・国家を超えた神への絶対愛・隣人愛を説く
選民思想を否定、神の前の平等を説く→世界宗教化
現世的救済を否定→魂の平安こそ真の救済

〇 キリスト教の成立
ユダヤ教の祭司、パリサイ派の反発→イエスをローマへの反逆者として告訴
イエスの処刑(30年頃)—ユダヤ総督ピラト(ピラトゥス)により十字架上にて
→復活、イエスは救世主(メシア)=キリストと信じられる

〇 キリスト教の発展
使徒の伝道と迫害
ペテロ(十二使徒)・パウロ、ローマ帝国に布教、
暴君ネロの迫害でペテロ・パウロの殉教
キリスト教徒は皇帝崇拝を否認→ディオクレティアヌスの大迫害
→殉教者を出すが、カタコンベ地下墓所・地下礼拝所)で信仰を継続
信徒の増大、下層民・奴隷などに普及→上流階級にも広まる
→キリスト教団(教会)の成立
『新約聖書』の成立
—ギリシア語(コイネ)で書かれる
福音書
—イエスの言行録(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる伝記)
使徒行伝—ペテロ・パウロらの伝道を記述
書簡集—ペテロ・パウロから各地の教会あての手紙 
                                       (2023/05/27)                                    

第2章 アジアの古代文明

[ 1 ] 古代インド

1. インダス文明(前2,300〜前1,700年頃)

インダス川流域―青銅器・都市文明の性格
遺跡:
モヘンジョダロ(インダス川下流域:シンド地方 “死の丘”)、ハラッパなど
特徴:
レンガ作りの家、上下水道、道路、神殿、沐浴場(宗教的施設)などの存在
民族−ドラヴィダ系(?)
① 宗教的権威を背景とした支配
② 有力市民の共同統治の可能性
インダス文字―象形文字(印章などに記載:未解読:ドラヴィダ系か?)メソポタミアからも出土
メソポタミアとの交易−青銅・金・銀・宝石などの発掘品
※インダス文明滅亡説
洪水、川の流れの変化、気候の乾燥化、耕地の不毛化、交易活動の不振などにより
(アーリア人による破壊説は現在否定)

2. アーリア人(インド=ヨーロッパ語族)の進入(前1,500年頃:馬と戦車により)

(1) 前期ヴェーダ時代
アーリア人のパンジャーブ地方進入(前1,500〜前1,300年:)
半農半牧の生活、ラージャン(部族長)に率いられる→部族国家を形成
鉄器時代の始まり→先住民のドラヴィダ人(ダーサと呼ぶ)を支配
バラモン教―自然崇拝の多神教(雷<インドラ>、アグニ<火>などを神として崇拝
『リグ=ヴェーダ』(神々に対する賛歌:最古の聖典)(前1,200年頃)成立

(2) 後期ヴェーダ時代(前1,000年頃〜前600年頃)
アーリヤ人ガンジス川流域へ進出→10あまりの国が成立、鉄器の使用、水田稲作の始まり
サーマ(詠唱)/ヤジュール(祭礼)/アタルバ(呪法)=ヴェーダなどの成立
―サンスクリット語の祖型   

★ヴァルナ(種・身分)制の成立(厳しい身分制度)
・バラモン:僧呂(宗教・儀礼)
・クシャトリヤ:武士(政治・軍事)
・ヴァイシャ:平民(後、商人をさす)
・シュードラ:奴隷(後、農民・牧畜民をさす)
※ヴァルナの枠外に不可触民の存在
※ヴァルナ制+ジャーティ(同一の出自集団:特定の職業など)=カースト制度

(3) 北インド(前7〜前5世紀)
各地に王国の成立(マガダ国・コーサラ国など:十六大国)
→戦争→クシャトリヤの台頭
各地に都市が成立→商工業の発展→ヴァイシャが台頭(貨幣の使用が始まる)

バラモンの祭式万能に対する批判・反省により
→ウパニシャド哲学(輪廻と転生:宗教哲学)の誕生
・ブラフマン(梵:宇宙の中心生命)
・アートマン(我:個人の中心生命)
→合一=「梵我一如(ぼんがいちにょ)」(解脱(げだつ)への道)

3. 新宗教の成立(前500年頃)

(1) 仏教
ガウタマ=シッダールタ(尊称:シャカムニ)により(前566頃~前486年頃)
仏陀=悟った者
ヴァルナ制(バラモン最高位:ヴェーダ祭式)を否定=人は平等
諸行無常という無常観
「八正道」](中道=極端な苦行と快楽を否定)の実践と自我の欲望(煩悩)を捨てる
→解脱への道を説く(輪廻転生から脱却:四苦=生老病死を克服)
→クシャトリア・ヴァイシャの支持
→マガダ国(ビンビサーラ王)の保護
→仏教教団(サンガ:出家者の団体)の成立
※ 仏陀の生涯:16歳結婚、29歳出家、35歳大悟成道(菩提樹のもと)、80歳入滅

くブッダの死後>

1回仏典結集—弟子達による正統的な教えを整理し、経典を編纂
(原始仏教時代:教団の統一維持)
第2回仏典結集
—ブッダの死後100年、分裂(部派仏教時代)
→各部派は、自派の正統性を主張するために、三蔵と称される経典を編纂
※ 三蔵
「経蔵」―ブッダの教えを集めたもの。
「律蔵」―仏教教団の規則を定めたもの。
「論蔵」―部派の教理を集めたもの。
ブッダの理想化―ジャータカ物語(本生話=前世の物語)の成立
ストゥーパ(ブッダの遺骨を納めた塔)の崇拝
ブッダの四大聖地(後世の仏教徒の巡礼地)
① カヒ°ラヴァスウ(生誕の地)
② ブッダガヤ(悟りの地)
③ サルナート(鹿野苑:初説法の地)
④ クシャナガラ(涅槃の地)

(2) ジャイナ教
ヴァルダマーナ(尊称:マハーヴィラ=ジナ:前549頃~前477年頃)
ヴァルナ制を否定
肉体的苦行を重視
不殺生主義→ヴァイシャの支持
※ ヴァルダマーナの生涯:30歳出家、42歳大悟、72歳入滅
※ 二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマヤナ』の原型の成立
―クシャトリアが主人公(サンスクリット語)

4. マウリヤ朝(前4世紀末〜前2世紀)
―ほぼインド全域(南端部を除く)を統一
建国者:0チャドラグプタ、マガダ国のナンダ朝を倒す(前317年)
アレクサンドロス大王の北インド侵入の混乱、併合
都:パータリプトラ(現パトナ)
西隣のセレウコス朝シリアからアフガニスタンを獲得(前305年)
※ギリシア人使節(セレウコス朝)メガステーネスの『インド誌』

最盛期
—アショーカ王(3代:前268〜32年)、全インド統一(カリンガ王国を征服)
・ダルマ(理法)に基づく政治
→石柱碑・磨崖碑を建設
・ストゥーパ(仏塔)の建立
—仏舎利(釈迦の遺骨)を分納
・第3回仏典結集―釈迦の教説の編纂会議
・セイロン島(王子マヒンダ)へ布教
→東南アジアへ広まる(小乗仏教=上座部)

アショーカ死後、帝国は分裂・衰退、滅亡

5. サータヴァーハナ(アーンドラ)朝(前1世紀〜後3世紀)
南インド(デカン高原)を支配
ドラヴィダ系
都:プラティシュタナ(現:パイタン)
ローマ帝国との貿易(季節風貿易)により繁栄

く西北インドの情勢(マウリヤ朝以後)>
—中央アジア方面から異民族の侵入

① バクトリア王国(ギリシア人)
→前180頃、インド侵入(パンジャーブ地方・西部インド)
メナンドロス(ミリンダ)王即位(前160頃)
—仏教文献『ミリンダ王の問』=仏教に帰依
※メナンドロスの貨幣

② サカ族(インド=スキタイ族:中央アジア系遊牧民族)
→前90~80頃、南下ガンダーラ侵入、インド定住
アフガニスタン・パキスタン・西北インドに小王国建国
(1世紀前後にクシャーナ朝に服属、4世紀末グプタ朝に滅ばされる)

③ パルティア族の侵入
→前17~前15頃、西北インド進出、支配

④ クシャーナ族(イラン系)の侵入(紀元後1世紀頃)
・ クジュラ=カドフイセース(カドフィセース1世)
→西北インドヘの侵入
・ ウエーマ=カドフィセース(カドフィセース2世)→統一

※ バクトリア(ギリシア人)→前2世紀、トハラ(大夏:スキタイ系)
→前1世紀頃、大月氏→クシャーナ族自立

6.クシャーナ朝(後1世紀〜3世紀)
―中央アジア・北インドを支配
イラン系―大月氏から自立(後45年)
都:プルシャプラ(現:ペシャワール)
絹の道(シルク=ロード)の中継点を支配して繁栄

※ローマとサータヴァーハナ朝(季節風貿易)
ローマ→陶器、ガラス器、酒、金貨
インド→胡椒、綿布、象牙細工

最盛期:カニシカ王(2世紀)
第4回仏典結集(仏教保護)
ササン朝ペルシア(シャープル1世)に敗北、衰退
→エフタルにより滅亡(3世紀)

★ クシャーナ朝の文化

① 大乗仏教(マハーヤーナ)の登場(紀元前後)
—従来の伝統的仏教(上座部:経典はパーリー語)を「小乗:ヒーナヤーメ」と批判(自己の解脱を求める<狭い救済>)
菩薩信仰が生まれる一万人救済が目的
→中央アジアを経て、中国・朝鮮・日本に伝わる(北伝仏教)
ナーガルジュナ(竜樹)が大乗仏教を確立(2~3C)
「空」の思想—すべてのものは存在せず、ただその名称があるだけ
※ゼロの観念との関係

② ガンダーラ美術の成立
ヘレニズム文化の影響によって、ガンダーラ地方(プルシャプラ中心)で仏像が彫刻される(1世紀後半から)

<菩薩信仰と大乗思想>

〇 菩薩信仰
菩薩(サンスクリット語)=ボーディ(悟り)を求めて、努力するサットヴァ(存在)という意味=ブッダになりたいと誓願を起こし、衆生(人々)を救済するために修行を積む者
ブッダになるための前段階。(観音菩薩、弥勒菩薩など)
→すべての人々を救済することをめざして、修行に励み、自らも解脱を得ようとする者。(大乗仏教)

利他行(菩薩行=自分を犠牲にして他人のために尽くすこと)を重視し、諸仏(釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など)・諸菩薩を拝することによって僧俗に関係なく救われる

〇 大乗思想
在家信者(=俗人←→出家信者=僧侶)が中心
すべての生類の解脱をめざし、菩提心(菩薩の仏道に進む心)を起こした人がすべて、
菩薩として完全な境地に達することが可能である。

7. グプタ朝(4世紀〜6世紀)―北インドを統一
建国者:チャンドラグプタ1世(位:320〜35年)
都:パータリプトラ
支配体制―帝国領(中央)と諸侯領(周辺:貢納の義務)
最盛期:チャンドラグプタ2世
宮廷詩人カーリダーサの活躍(サンスクリット文学)
『シャクンタラー』(戯曲)
『メガ・ドゥータ』(抒情詩)
東晋の僧法顕の訪印(ナーランダ学院:クマーラ=グプタ1世の創建:5世紀)
『仏国記』を記述
 エフタル(遊牧民)の進入により衰退(5〜6世紀)

★ グプタ朝の文化(インド古典文化の最盛期)
① ヒンドゥー教の成立―バラモン教と民間信仰の融合
シヴァ神(破壊・舞踏)・ヴィシュヌ神(維持)・ブラフマー(創造)
『マヌ法典』の完成―法律・宗教・道徳的規律と一般的儀礼を規定
② 二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の完成
③ ナーランダ学院での仏教教義の研究
④ グプタ美術―アジャンタ・エローラ石窟寺院の仏教壁画(純インド様式)
→法隆寺の壁画に影響
⑤ 数字・十進法・ゼロの概念→イスラム世界(アラビア)の学問に影響

8. ヴァルダナ朝(7世紀前半:最後の北インド統一)
建国者:ハルシャ=ヴァルダナ(戒日王:位606〜47年)
都:カナウジ
唐の僧玄奘の訪印(629〜45年)『大唐西域記』を記述
唐(太宗)の使節王玄策の訪印
ハルシャ=ヴァルダナの死後、分裂と混乱→ラージプート諸王朝の時代へ

9. 南インド(ドラヴィダ系)の諸王朝

① チャールキャ朝(6世紀中頃~8世紀中頃:ヒンドゥー教)
都:ヴァーダビ
デカン地方を統一
グプタ文化の受容
ハルシャ=ヴァルダナの進撃を阻止
(7世紀前半:プラケーシン2世により:ナルマダー河畔の戦い)

② チョーラ朝(前3世紀~後13世紀 : ヒンドゥー教)
ドラヴィダ系タミル人
都:タンジャブール
全盛期(10世紀~11世紀)
—南インドを統一
スリランカを一時支配(ラージャラージャ1世により)
シュリーヴィージャヤ (三仏済:スマトラ島)へ遠征(1026年頃)
→パーンデイヤ朝によって滅亡

③ パッラヴァ朝(3世紀後半~9世紀末)
都:カーンチー
インド島南岸を支配
④ パーンデイヤ朝(前3世紀~後14世紀 :ドラヴィダ系タミル人)
都:マドウライ
南インドを統一
ローマとの交易で繁栄(皇帝アウグストゥスに使節派遣)
→14世紀中頃、衰退・滅亡

★ バクティ信仰(7世紀頃~)
−シヴァ、ヴィシュヌ神に絶対帰依を捧げる(仏教・ジャイナ教攻撃)
→南インドで民衆の中に広まる(パッラヴァ朝、チョーラ朝など)

※タントリズム(タントラ教:密教=後期インド仏教)と女神崇拝の広がり
—呪術的・神秘主義的性格

※ 仏教がインドで衰退した理由

〇 カーストを無視し、人類の一切の平等を説く仏教は、インド社会にあって
は異質的なものであった。
〇 クシャトリア(王侯・武士階級)の保護の下に栄え、民衆の支持が弱かっ
た。
〇 僧院中心(エリート層・学者)の宗教であったため、民衆から離れた。都市経済が衰退し、仏教を支えてきた商工業者が没落した。
〇 王侯たちが、ヒンドゥー教信仰に傾き、彼らの援助が受けられなくなった。
〇 ヒンドゥー教と異なり、農村社会に浸透できなかった。
〇 ジャイナ教と異なり、一般信者が生活様式で結ばれていなかった。
〇 密教化(呪術宗教)した仏教が独自性を失い、ヒンドゥー教に吸収されていった。(ブッダもヒンドゥー教の神の一人に)
〇 イスラム教に反抗する民衆的な基盤は弱く、むしろヒンドゥー教に見られ
た。
〇 イスラーム・ヒンドゥー両教の挟撃により衰退した。
〇 イスラーム教徒の侵入軍による僧院の破壊が、基盤を失いつつあった仏教にとどめをさした。

(2023/12/07)

[ 2 ] 黄河文明・殷・周

1. 黄河文明(新石器時代)

黄河流域の黄土地帯
→農耕と牧畜(粟・きびの栽培、豚・犬・牛・馬の飼育)の開始

(1) 仰詔(ぎょうしょう:ヤンシャオ)文化(前5000~前3000年頃)

河南省仰詔でアンダーソンにより発見
(1921年:スウェーデン人地質学者)
彩陶(彩文土器)が特徴
—西方文化(オリエント)との関係が有力
磨製石器の使用
半披(はんば)遺跡(1952年発見)
―環濠集落、竪穴住居

(2)竜山(りゅうざん:ロンシャン)文化(前3000~前2000年頃)

山東省竜山で発見
—黒陶・灰陶が特徴(三足土器:鬲(れき)と鼎(てい))
邑(集落)が成立
→都市国家(城郭都市)の成立

※ 長江文明
—河拇渡(かぼと)遺跡(長江下流域:水田集落)

2. 殷(いん:商)王朝(前16世紀~前11世紀:最古の王朝)

※伝説:三皇五帝
(4代堯(ぎょう)、5代舜(しゅん))
→禹(う)(夏王朝=最古の王朝の可能性)
殷墟(いんきょ:河南省安陽の遺跡)の発掘(1928年)→王墓・宮殿跡の発見
殷(商)王朝の実在が証明
甲骨(こうこつ)文字(漢字の原型)の発見
(王国維・羅振玉により解読:『鉄雲蔵亀』)
→占いによる政治=祭政一致の神権政治
青銅器の使用(祭祀用の酒器や食器)
—宗教的権威で支配
氏族制社会(共通の祖先を持つ集団)による都市国家「邑(ゆう)」の連合の性格
=邑制国家
王位継承―兄弟相続から父子相続へ変化

3. 周(前11世紀~前256年:前8世紀の東遷以前=西周)

渭水(いすい)盆地(陝西省)から発展
→武王(周)が、紂(ちゅう)王を倒して殷を滅ぼす。
(牧野の戦い:前1027年:戦車中心)
=易姓(えきせい)革命(「天の命が革(あらた)まり、姓が易(かわ)る」
禅譲(ぜんじょう:平和的)と放伐(ほうばつ:武力)の2形式
※ 夏桀殷紺(かけついんちゅう:暴君の代名詞:酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑など)
都:鏑京(こうけい)(現在の西安付近)
封建制度を実施
—血縁関係を基礎とする政治組織(統治体制)一族・功臣・土着の首長に封土(邑)を付与
→世襲の諸侯(公・侯・伯・子・男の五等の爵位)とし、軍役・貢納の義務を課す
→卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)の世襲家臣団の成立

※ヨーロッパの封建制(フューダリズム)=契約関係との相違

宗法制度
—宗族(父系の同族集団)の維持が目的
大宗(本家)と小宗(分家)の規律
=宗法(嫡長子相続制、同姓不婚の原則など)
→大宗の家長を中心に祖先を祀る「礼政一致」の政治
礼=道徳的規範

※井田(せいでん)制の実施(土地制度)
—実体は不明

4.春秋戦国時代(前8〜前3世紀:東周)
―都市国家分立から中国統一への過渡期

(1) 春秋時代(前8〜前5世紀:孔子の『春秋』にちなむ)

異民族犬戎(けんじゅう)の侵入
→都を鎬京から洛邑(らくゆう)に移す(東周:平王)
周の衰退
→覇者の出現、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」を唱える
春秋の五覇:
・斉の桓公(かんこう)
・晋(しん)の文公
・楚の荘王
・呉の夫差(ふさ)(または闔閭(こうりょ))
・越の勾践(こうせん)
他、秦(しん)の穆公(ぼくこう)、宋の襄公(じょうこう)など諸説
※「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の故事(呉と越の争い)

(2) 戦国時代(前5〜前3世紀末:『戦国策』にちなむ)

晋が下剋上により三カ国に分裂(前403年:韓・魏・趙)
戦国の七雄−秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙
斉の都:臨淄(りんし)
—城内に製鉄場、鋳銭場などの存在
趙の都:邯鄲(かんたん)の繁栄

秦(孝公)
都:咸陽(かんよう)
商鞅(しょうおう)(法家)の改革(変法)
→富国強兵に成功
① 県制の実施−長官を派遣
② 分異の法−分家を強制
③ 什伍(じゅうご)の制−隣保制(連帯責任)
④ 軍功爵−軍功で爵位を与える
→秦王政により、戦国時代の六カ国を滅ぼして中国を統一(前221年)

縦横家(諸子百家)の活躍
蘇秦(そしん):
合従(がっしょう)策(対秦:秦に対抗する六国の同盟)
張儀(ちょうぎ):
連衡策(れんこう)策(親秦:秦と六国が各々同盟)

(3) 社会・経済
鉄製農具による牛耕農法
→農業生産力の飛躍的発展(7〜8倍)
→土地私有の傾向(貧富の差)
→封建制度の崩壊(実力主義)
商工業の発達
→青銅貨幣の出現(刀銭・布銭(ふせん)・環銭(円銭)・蟻鼻銭(ぎびせん)など)

(2023/12/08)

[ 3 ] 秦・漢

1. 秦の統一(前221年)―始皇帝(秦王政)

★始皇帝の政策

① 王号を廃止し、初めて皇帝と称す
② 都: 咸陽(かんよう)(現在の西安付近)−阿房宮と始皇帝陵を建設
③ 全国を直轄領として郡県制(36郡→後48郡)を実施−中央から役人を派遣
④ 官制
<中央>           
・丞相(行政)          
・太尉(軍事)            
・御史台(監察)  
<郡>
・守
・尉
・監
<県>
・令   
⑤ 度量衡・貨幣(半両銭:銅銭)・文字(小篆(しょうてん))の統一
⑥ 李斯(りし:法家)を採用
→焚書(ふんしょ:前213)・坑儒(こうじゅ:前212)(思想統制)
⑦ 北方の匈奴に遠征(将軍:蒙恬(もうてん))、万里の長城を修築
⑧ 南方の南越を征服→南海など3郡を設置

始皇帝の死後
→陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱(農民反乱:前209〜208年)
“王侯将相いずくんぞ種あらんや”
→諸侯(劉邦・項羽ら)の反乱
→秦の滅亡(前206年)

2. 前漢(前3世紀末〜後1世紀初)

(1) 項羽(こうう:楚の名族)と劉邦(りゅうほう:農民出身)の抗争
→劉邦の勝利(垓下の戦い「四面楚歌」:前202年)、中国を統一
都:長安(現在の西安付近)

(2) 高祖(劉邦)の政策
郡国制の実施−封建制と郡県制の併用
要地は皇帝の直轄(郡県制)、遠隔地には一族・功臣を封じる(封建制)
北方の匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に敗北(白登山の戦い)
→歳貢を送る=匈奴に対して和親策

(3) 呉楚七国の乱(諸侯の反乱:前154年)−鎮圧(6代景帝)
→実質的に郡県制へ
→中央集権化を強化

(4) 武帝(7代:位前141〜87年)の登場

★武帝の政策(中央集権体制)
 ※最初の元号「建元」制定

<外征>
① 北方の匈奴に対して積極策をとる
→張騫(ちょうけん)を大月氏国に派遣して、挟撃策を計画
→失敗(ただし西域地方の情報を得ることに成功)
※ 将軍衛青・霍去病(かくきょへい)の匈奴討伐
② 汗血馬を求めて、中央アジアのフェルガナ(大宛(だいえん))に遠征
−将軍李広利の活躍
③ 西域(中央アジア)への門戸として、敦煌(とんこう)等4郡を設置(前121年)
※ 河西4郡:敦煌、酒泉、張掖、武威
④ 衛氏朝鮮を征服→楽浪郡等4郡を設置(前108年)
※ 朝鮮4郡:
楽浪、臨屯、玄菟(げんと)、真番(しんばん)
⑤ 南方の南越(南海郡尉:趙佗(ちょうだ)の建国)を征服
→南海等9郡を設置(前111年)
※ 交趾(こうし)郡(現ハノイ)、日南郡(現ユエ付近)

<内政>
① 財政再建策(桑弘羊(そうこうよう))の進言
−均輸法(物価調整:前115年) ・平準法(物価安定:前110年)
塩・鉄・酒の専売、五銖銭(ごしゅせん:銅銭)の鋳造
② 儒学の国学化
−薫仲舒(とうちゅうじょ)の進言による
→五経博士の設置
③ 郷挙里選(官吏任用制度)を施行
—有徳者(儒教の徳)を、地方長官が中央に推薦
→豪族(地方の有力者:大土地所有者)の子弟の政界進出
④ 推恩(すいおん)の令(前127年)
一土地の分割相続を強制=諸侯の勢力を弱める目的

3. 新(後8〜23年)

建国の背景
—豪族・宦官(かんがん)・外戚(皇后の実家)の台頭
→政治の混乱
外戚の王莽(おうもう)が帝位を奪い、新を建国−周の制度を理想
赤眉(せきび)の乱(農民反乱)
→社会混乱の中で滅亡

4. 後漢(後25〜220年)

(1) 後漢の再統一
劉秀(洪武帝)が赤眉の乱を平定して建国
都:洛陽
倭(日本)の朝貢
→使者に「漢委奴国王印」を授ける(『後漢書』東夷伝)

(2) 西域経営と東西交渉
西域都護の班超(はんちょう)が活躍
→部下の甘英(かんえい)を大秦国(ローマ帝国)に派遣(途中帰国)
大秦王安敦(たいしんおうあんとん)
=ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が来訪(2世紀後半)

(3) 衰退と滅亡
宦官・外戚・官僚の対立
→党錮(とうこ)の禁(166年、169年)−宦官が官僚(党人)を弾圧
黄巾の乱(農民反乱:184年)−太平道の張角が指導
→曹操(そうそう)らが鎮圧→群雄割拠
→曹丕(そうひ)が魏を建国し、後漢の滅亡(220年)

(2023/12/09)

第3章 東アジア世界の形成

[ 1 ] 魏晋南北朝

1. 三国時代(220〜280年)
 赤壁の戦いにより
(208年:魏対蜀・呉連合の勝利)

(1) 魏(220〜265年)
 曹操の子曹丕(文帝)
 後漢の献帝により禅譲建国
 都:洛陽
 ・屯田制の実施
  -流民に土地を与える(民田)
 豪族(大土地所有)に対する政策
 ・九品中正制の実施(官吏任用制度)
  ―中正官が九品に分けて中央に推薦
 →豪族の子弟の政界進出→門閥貴族化
 “上品に寒門なく下品に勢族なし”
 邪馬台国の卑弥呼の使者の来朝
 (『魏志』倭人伝:239年)

(2) 蜀(国号は漢:221〜263年)
 劉備玄徳の建国ー四川を支配
 宰相諸葛亮(孔明)
 ※ 関羽・張飛との水魚の交わり
 都:成都
 孔明死後(五丈原にて)、弱体・滅亡(劉禅:魏により)

(3) 呉(222〜280年)
 孫権の建国―長江下流域を支配
 都:建業(現在の南京)

2. 晋(しん)と五胡十六国(3〜5世紀)

(1) 西晋
 魏の将軍司馬炎(武帝)、
 帝位を奪って建国(265年)
 ※ 司馬懿(い)(仲達)
 →昭(蜀を打倒)→炎
 都:洛陽
 呉を滅ぼして中国統一(280年)
 占田・課田法の実施―大土地所有を制限
 ※ 封王制を実施―一族を王に封じる(軍事力)
 八王の乱(290〜306年:恵帝)
 皇太后楊(よう)氏と  
 皇后賈(か)氏の争い
 →「五胡(ごこ:遊牧民族)」の侵入→
 永嘉(えいか)の乱(懐帝:311〜16年
 →南匈奴(劉聡:りゅうそう)により
 西晋の滅亡(愍帝びんてい:317年)
 →東晋へ

(2) 五胡十六国
 五胡
 ・匈奴
 ・鮮卑(せんぴ)
 ・羯(けつ) 
 ・氐 (てい)
 ・羌(きょう))、華北で興亡
 前秦(苻堅)、華北を統一(376年)、 南進→淝水(ひすい)の戦い
(対東晋の将軍謝玄:383年)に敗北→
 分裂

(3) 東晋(317〜420年)
 王族の司馬睿(えい)が建国
 都:健康(現在の南京)
 土断法(413年)−戸籍の整理
 皇帝の権力は弱体、
 江南(長江下流域)の開発→
 貴族社会を形成

3. 南北朝(5〜6世紀)

(1) 北朝
 北魏
 鮮卑の拓跋珪(たくばつけい:道武帝) の建国(386年)
 太武帝(3代)華北を統一(439年)
 都:平城(現在の大同)
 道教の国教化(寇謙之:こうけんし:
 新天師道の祖)→仏教の弾圧(446年)
 ※ 三武一宗の法難

 孝文帝(位471〜99年)
  漢化政策(胡語・胡服の廃止)
  平城から洛陽に遷都(494年)
  均田制(485年)
  ―土地を農民に給与
  (奴婢・耕牛にも:豪族有利)
  →大土地所有を抑制
  三長制―村落制度
 (5家=隣、5隣=里、5里=党) 
  →財政確保・治安維持

 分裂(534年:六鎮の乱により)
 ・東魏(丞相:高歓)都:鄴(ぎょう)
  →北斉(高洋)
 ・西魏(丞相:宇文泰)都:長安 
  府兵制=兵農一致→北周(宇文覚)
  →隋

(2)南朝
 東晋の滅亡後、四王朝が興亡
 宋(劉裕)
 →斉(蕭道成:しょうどうせい)
 →梁(蕭衍:しょうえん)
 →陳(陳覇先)
 都:健康
 六朝文化の繁栄

参考>
府兵制(西魏)と隋・唐との関係
・府兵制=兵農一致の徴兵制(郷兵)
「開府(一軍)」
→「二十四開府(二十四軍)」を編成
「二十四開府」
→「大将軍」に開府を統轄)
=「十二大将軍」
→「柱国」(二人の大将軍を統轄)
=「八柱国」

・「十二大将軍」の一人楊忠は、隋の楊堅(文帝)の父
・「八柱国」の一人李虎は、唐の李淵(高祖)の祖父
=武川鎮(「六鎮」の一つ)軍閥出身(宇文泰)

(2024/01/08改)

[ 2 ] 隋・唐

1. 隋(581〜618年)

(1)楊堅(文帝)の建国(581年)
 ―北周の外戚
  陳を滅ぼし中国を統一(589年)
  都:大興城(長安:現西安)
 ・均田制(土地制度)
 ・府兵制(軍制)
 ・租調庸(税制)を実施
  科挙(選挙)を実施(598年)
  ―学科試験による官吏任用制
  ⇒九品中正制の廃止
  北方民族突厥(とっけつ:トル系)
  の台頭
 (モンゴル高原)⇒東西分裂に成功

(2)煬帝(楊広:位604〜18年)の政策
  大運河の完成―琢郡(北京)〜抗州
  (広通渠:黄河〜長安)
  ;邗溝(かんこう):淮河〜長江
   =文帝
  通済渠:黄河〜淮河;
  永済渠:黄河〜琢郡;
  江南河:長江〜抗州
  =煬帝
 ⇒運河は、軍事・経済的意義により建設
  
 小野妹子の遣隋使の入朝(607年)
 吐谷渾(とよくこん)を征服(609年)
 高句麗遠征(612,613,614:3回)失敗
 →農民反乱により、隋は滅亡(618年)

2. 唐(618〜907年)

(1)律令体制の確立
 李淵(高祖:位618〜26年)
 -太原(現山西省)で挙兵
 →長安を占領、唐を建国
 都:長安
 李世民(太宗:位626〜49年)
 ―玄武門の変(兄李健成を暗殺:626年) により即位
 各地の群雄を一掃して中国を統一
(628年)
律(刑法)・令(行政法)・各(補充)・式(細目)の整備

★貞観の治<太宗の治世:宰相 房玄齢・杜如晦>

〈内政〉

①中央官制(三省六部九寺一台)
・三省
 中書省一詔勅(しょうちょく)の起草
 門下省一詔勅の審議→
     貴族の拠点(封駁=拒否権)
 尚書省一行政、 六部を統轄
 ・六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)
  吏部=官吏の選任;
  戸部=財政;
  礼部=教育・祭祀
  兵部=軍事; 刑部=司法;工部=土木
 ・御史台 ―監察機関(御史大夫
  =長官)
 ②地方―州県制(道・州・県・<府>)
  道(按察使)・州(刺史)・県(令)
  ・<府=長安・洛陽・太原>
 ③官吏任用制―科挙制
 <蔭位の制=
  父祖の官位に応じてその子弟を任用>
 <令外官=
  節度使・塩鉄使など皇帝が任命>
 ④土地制度
 均田制(成年男子に口分田(一代限り)、
  永業田(世襲)を支給)
 ⑤税制―
  租(生産物)
  調(特産物)
  庸(中央の労役)
  雑揺(地方の労役)
 ⑥軍政―
  府兵 制(折衝府で訓練)
   防人=辺境防備 衛士=都警備
   =兵農一致の徴兵制

<外征>
東突廠を撃破、吐蕃 (チベット)を服属

(2)唐の繁栄と衰退

 高宗(位:649〜83年)―領土最大
  西突厥を討伐(657年)―西域の支配
  朝鮮の百済(660年)・
  高句麗(668年)を滅ぼす
 (新羅と連合)
 六都護府を設置
(安東・安南・安北・単于・安西・北庭)
・安南都護府(交州=ハノイ)
・安東都護府(平壌668年→遼東676年)
  ⇒周辺民族を統制
  覊縻政策(族長を地方の長官に任命:
  間接統治・自治)

 武韋の禍(690〜710年)
 則天武后、国号を周と改める
 (690〜705年:武周革命)
  仏教を保護
 韋后、中宗を暗殺(710年)←李隆基(玄宗)が韋后を打倒

 玄宗(712〜56年)
 前半―開元の治(8世紀前半)=
  唐文化の最盛期(李白・杜甫など)
  均田体制の崩壊→
  大土地所有制の進展(荘園)
  府兵制→募兵制へ
  (傭兵制:723年:健児)
  →十節度使(令外の官)の設置
 (辺境防備:兵権・民政権・財政権;
  河西節度使が最初:710年)
 河西・平盧・笵陽・河東・朔方・隴右・安西・北庭・
 剣南・嶺南

 後半
 タラス河畔の戦い(751年)で
  イスラームに敗北(将軍高仙芝) 
  →製紙法の西伝
 安史の乱(755〜63年)
 節度使安禄山・史思明と
 楊貴妃一族(宰相楊国忠)の対立→挙兵
 →ウィグル(トルコ系)の援助で鎮圧

 安史の乱後
 租調庸→両税法ヘ
  一土地・資産に夏・秋年2回課税
  =土地の私有を公認
  宰相楊炎の献策(9代徳宗:780年)
  塩の専売制を施行一塩鉄使を設置
 (間接税:原価の10倍~30倍で販売)

 3つの禍(9世紀中頃~後半)  
  一唐滅亡の要因
 ・藩鎮(はんちん)の禍
  節度使(藩鎮)の内地設置
  (安史の乱に際して)
  →地方軍閥化(約50)
 ・朋党(ほうとう)の禍
  (官僚の派閥争い)
   牛僧濡と李徳裕の争い=牛李の党争
 ・宦官(かんがん)の禍
 「定策国老、門生天子」
  一宦官が皇帝の廃立を自由に操る

 黄巣の乱(875~884)
 塩の密売人黄巣、王仙芝が指導
(農民反乱)
→節度使李克用(突廠系沙蛇部)
・朱全忠により鎮圧される 
 節度使朱全忠(後梁を建国)により、
 唐滅亡(20代哀帝:907年)
 →五代十国時代へ
 遣唐使の廃止
 (894年:菅原道真の建議)

(3)唐の社会と経済

長安の都は国際都市として繁栄
(100万人)
市の形成―都市内の公設市場←→草(市)(城壁外市場)
飛銭―送金のための手形
(紙幣の原型:9世紀初め)
外国貿易―蕃坊(外国人居住地)
・海路―イスラーム商人(アラブ人=大食人)の活躍
→広州・揚州・泉州等海港都市の発達
→市舶司(海上貿易管理期間:
 最初は広州)の設置
・陸路
 ―イラン系のソグド商人の活躍(胡人)

(2024/01/14)

第二部:中世

第4章 イスラーム世界の形成と発展

[ 1 ] イスラーム世界の形成

1. イスラーム教の成立

(1)背景
 ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの対立抗争(6世紀後半)
 →アラブ人の中継貿易の繁栄
 →メッカの繁栄(貧富の差の拡大)
(2)イスラーム教
 預言者ムハンマド
(クライシュ族ハーシム家:610年神の啓示)アッラー一神教
 六信
① 神
② 天使
③ 預言者たち(モーゼ・イエスなど)
④ 各種の啓典(旧約聖書・新約聖書など
⑤ 来世
⑥ 神の予定を信じること
五行
① シャハーダ(信仰告白)
② サラート(礼拝)
③ ザカート(喜捨)
④ サウム(断食)
⑤ハッジ(巡礼)の義務
 神の前での平等(イスラーム教徒=ムスリム)
 →世界宗教へ
 偶像崇拝の禁止
 聖職者の不在
 ユダヤ教・キリスト教の影響―「啓典の民」
(信仰の自由を認める)
 経典『コーラン』(アラビア語:翻訳禁止)
 →アラビア語の普及
 聖地:メッカ(カーバ神殿)

2. ムハンマド時代(7世紀前半)
ヒジュラ(聖遷)(622年)
―メッカからメディナへ移住
(イスラム暦元年)
メッカを征服(630年)
→アラビア半島を統一
(アラブ諸部族を支配下)

3. 正統カリフ時代(632〜61年)
カリフ(ハリーファ=後継者の意味)
—政治的指導者
初代アブー=バクル(ムハンマドの叔父)
経典『コーラン』成立(650年頃)
ジハード(聖戦)の開始—征服活動
“コーランか貢納か剣か”
→征服地に、ジズヤ(人頭税)・
ハラージュ(地租)を課す
ニハーヴァンドの戦い(642年)に勝利
→ササン朝滅亡(651年)
シリア(636年)・エジプト
(642年アレクサンドリア)を獲得
←ビザンティン帝国から
=古代オリエント世界の崩壊
→アラブ・イスラーム帝国の成立
征服地にミスル(軍営都市)を建設
(バスラ・クーファ・フスタートなど)
→イスラーム戦士団(家族)の移住

2代ウマル(634〜44年)
3代ウトマン(644〜56年)
4代アリーの暗殺→ウマイヤ朝の成立(661年)

★ シーア派の成立←→スンナ(ニ)派対立
シーア派(少数派)
—アリーの子孫だけを最高指導者とする
スンナ派(多数派)
―歴代カリフの権威を認める(正統派)

4. ウマイヤ朝(661〜750年)
ムアーウィア創始
(シリア総督:カリフを自称)
都:ダマスクス
イベリア半島の西ゴート王国(ゲルマン系)を征服(711年)
トゥール=ポワチエ間の戦い(732年)
→フランク王国(宮宰カール=マルテル)
に敗北→ピレーネ山脈以南に後退

アラブ人至上主義—四つの階級
① アラブ人イスラーム教徒→免税特権
② マワリー(非アラブ人イスラーム教徒:イラン・イラク人など)
 —ジズヤ・ハラージュの義務
③ ズィンミー(庇護民:「啓典の民」ユダヤ教徒・キリスト教徒)
 —信仰の自由、ジズヤ・ハラージュの義務
④ 奴隷(捕虜または購買奴隷)

アラブ化政策
—公用語はアラビア語、アラブ貨幣(ディナール金貨)の発行
+ディルハム銀貨(旧ササン朝)の二本位制
→イラン人、シーア派の反発
→アッバース革命運動へ

5. アッバース朝(750~1258年イスラーム帝国)
初代アブー=アル=アッバース(サッファーフ=流血者)
→シーア派を粛正
タラス河畔の戦い(751)で唐(高仙芝)を破る→製紙法の西伝
2代マンスール
新都バグダード(マディーナ=アッサラーム)を建設(762)
(世界の中心をイメージ)
カリフの神格化—「神の使徒の代理」から「神の代理」へ
中央集権化(官僚機構の整備:軍隊と官僚)
ホラサーン軍の重用<カリフ権第一の支え>
デイワーン(財務庁)制の整備
—イスラーム教に改宗したイラン人の活躍(官僚)
ワズィール(宰相)職の創設—諸官庁を統轄
バリード(駅伝)制の整備(主要な街道に駅馬を配備)
アター制一軍隊や官僚に現金俸給を支払う

★イスラーム帝国の税制(平等)
イスラーム教徒(非アラブ人も)
—ジズヤ免除
土地所有者(イスラーム教徒も)
—ハラージュを課す

5代ハルーン=アッラシードの治世
(800頃:全盛期)
—パックス=イスラミカ(イスラームの平和)
死後、カリフ権の衰退
イスラームに改宗したトルコ人奴隷
(マムルーク)を親衛隊として導入
→軍人勢力の台頭

ザンジュの乱(869~883年)
一南イラクでの黒人奴隷の反乱、鎮圧される
(ザンジュ王国建国:指導者アリー=プン=ムハンマド)
9世紀以後、帝国は解体へ
(ターヒル朝、サッファール朝、トゥールン朝独立)
→3カリフ国鼎立(10~11世紀)
滅亡(1258年)
—モンゴルのフラグにより
(37代カリフ:ムスタースイム)

★ イスラーム法(シャリーア)

『コーラン』(神の言葉)—断片的、恣意的
(例えば飲酒など曖昧)
「ハーディス」(伝承)—ムハンマドの情報に基づき
「スンナ」(ムハンマドの言行)によって判断される。
(1日何回礼拝するか、礼拝の形式など)

→イスラーム法(シャリーア)の誕生
ウラマー(知識人)の登場
—学者・裁判官などで活躍(法解釈)

シャリーアの2つの側面
・人—神(宗教的規範)
・人—人(法的規範)
—離婚、遺産相続、商取引など
イスラームは単なる宗教面(断食、礼拝、巡礼など)だけではなく、
すべての社会生活を規制。

★ ウンマ(共同体)の概念図

    神(アッラー)
      ↓交信
人  ―  人  —  人
   (ムハンマド)

・聖職者の不在(ウラマーは非聖職者)
・ムハンマドの後継者カリフ(ハリーファ)は
ウンマの政治的指導者(アッラーと非交信)

6.イスラーム帝国の分裂(10世紀)
 —3カリフ国鼎立
(1)ファーティマ朝(909〜1171年)
(エジプト:シーア派)
チュニジアに建国
→カリフと自称(中カリフ国)
エジプト征服—新都カイロを建設(969年)
(2)後ウマイヤ朝(756〜1031年)
イベリア半島に建国(西カリフ国)
建国者:アブド=アッラフマーン1世
都:コルドバ
アブド=アッラフマーン3世、カリフと自称
(全盛期:10世紀)
宰相アル=マンスールの活躍
(3)ブワイフ朝(932〜1055)
 —イラン系:シーア派
 バグダード入城(946年)→武家政治開始
 (大アミール=総督;行政・軍事・財政権)
 ←→カリフ(宗教的権威)
 イクター(分与地)制施行
―軍人に土地の徴税権を認める
→セルジューク朝により滅亡(1055年)

(2024/01/17)

[ 2 ] イスラーム世界の発展

1.イスラーム諸王朝の変遷

〇イスラーム諸王朝(11〜15世紀)
エジプト:
ファーティマ朝→(1)アイユーブ朝→(2)マムルーク朝
イラク・イラン:
ブワイフ朝→(3)セルジューク朝→ホラズム
→イル=ハン国(モンゴル帝国)
中央アジア:
(4)サーマン朝→(5)カラハン朝→カラキタイ
イベリア半島・モロッコ:
後ウマイヤ朝→(6)ムラービト朝→(7)ムワッヒド朝→(8)ナスル朝

(1)アイユーブ朝(1169〜1250年)
 建国者:
サラディン(サラーフ=アッディーン)
スンナ派―アッバース朝カリフの宗主権承認
聖地イェルサレム奪回(1187年)
→第3回十字軍に対抗
―英リチャード1世・独フリードリッヒ1世
・仏フィリップ2世
→リチャード1世はサラディンと和して帰国

(2)マムルーク朝(1250〜1517年)
  スンナ派
  トルコ系軍人奴隷(マムルーク)の建国
  東:モンゴル軍阻止
―バイバルス(第5代スルタン)により
アッバース朝カリフを保護、カイロに擁立
メッカ・メディナを保護下
西:十字軍を阻止
オスマン朝トルコによって滅亡(1517年)

(3)セルジューク朝(1037~1157:トルコ系:スンナ派)
建国者:トゥグリル=ベグ(遊牧民:オグズ=トルコ人集団の長)
(ガズナ朝下→独立)
軍事力—遊牧民トウルクマーン集団とマムルーク(親衛軍)
バグダード入城→ブワイフ朝を滅ぼす(1055)
—イラン・イラクを支配
スルタン(君主)の称号←アッバース朝カリフ(カーイム)より(武家政治)
—世俗権を委任される
2代アルプ=アルスラーン→小アジア(アナトリア:ビザンツ領)進出
マンジケルト(マラーズギルド)の戦い(1071 :皇帝ロマヌス=ディオゲネス)に勝利
→分派:ルーム=セルジューク朝の建国(1077~1308:小アジアのニケーア)
3代マリク=シャー(全盛期:宰相ニザーム=アルムルク:ペルシア人)
ニザーミヤ学院(スンナ派)の創設
—国家官僚の養成
『統治の書スィヤーサト=ナーメ』
—君主の統治の心構えを述べた教訓文学
シリア進出、イェルサレム占領(11世紀末)
→ファーテイマ朝の勢力を排除
トルコの脅威(小アジア)
→ビザンツ帝国がヨーロッパに救援要請(ローマ教皇へ)
→十字軍の原因
公用語はペルシア語(官僚ペルシア人)
イクター制を施行(世襲化)
→保有者が独立君主化
→分裂へ(12C中頃)

(4)サーマン朝(875〜999年:イラン系)
 中央アジアから東部イランを支配
  都:ボハラ
 マムルークを輸出(国家の収入源)
 ペルシア語公用語—イラン文化を保護
  
(5)カラハン朝(940年頃〜1132)
トルコ系
東・西トルキスタンを統一
→中央アジアを支配、イスラームの導入
カラキタイ(西遼:耶律大石)により滅亡

(6)ムラービト朝(1056〜1147年)
ベルベル人の修道士(ムラービト)により
モロッコ(マグリブ地方)に建国
都:マラケシュ
→西アフリカのガーナ王国滅ぼす(1076年)
→イベリア半島に進出(アンダルス地方)

(7)ムワッヒド朝(1130〜1269年)
 ムラービト朝を滅ぼす
 都:マラケシュ
 哲学・医学者イブン=ルシュッドの活躍
(ラテン名:アヴェロエス)

(8)ナスル朝(1230〜1429 年)
 イベリア半島最後のイスラーム王朝
 都:グラナダ
 ―アルハンブラ宮殿の建設
 スペイン王国によるレコンキスタ(国土回復運動)により滅亡(1492年)

2.イスラームの社会と経済

(1)イスラームの社会
ムスリム共同体(ウンマ:六信五行の遵守)
モスク(礼拝所)
―金曜礼拝(正午の集団礼拝)
説教(フトバ)=カリフやスルタンの名において
スーク(市場=バザール)
—ムスリム商人の活躍、同業組合の結成
ユダヤ教徒・キリスト教徒(ズィンミー)
=ミレット(共同体)を形成
モスク・スーク・病院・マドラサ(学院)
―ワクフ(寄進)により運営・維持

〇スーフィズム(イスラーム神秘主義)の運動(9~10世紀に確立)
神と合一することが目的=神秘的合一
イスラーム法を遵守した内面的修行を重視
→ひたすら来征を思い、清貧に生きようとする禁欲家の登場神秘主義教団(タリーカ)の結成

〇ガザーリー(ラテン名アルガゼル:イラン系:11世紀後半)
ニザーミヤ学院教授
→学問と信仰の統一に悩み放浪の旅
—神秘主義思想を正しく位置づけ、スンナ派神学体系を確立『宗教諸学のよみがえり』

(2)産業と経済の発展
イスラーム教による商業の肯定
征服による一大商業圏の誕生
政府の商業活動の保証
ディナール金貨とディルハム銀貨の二本位制(世界共通貨幣)
為替手形(スフタジャ)、小切手(チェック:サック)の利用
特産物(輸出品):
・エジプトー亜麻織物・砂糖(砂糖黍栽培)
・ダマスクスー綿織物・絹織物
・バグダードー紙・貴金属・ガラス製品
・イラン・イラク=絨毯
→ビザンツ帝国や西ヨーロッパに向けて輸出

輸入品:
(ムスリム商人により:キャラバン・ダウ船)
・中国一絹織物・陶磁器
・インド・東南アジアー香辛料・綿布・宝石
・ロシアー毛皮・奴隷
・ビザンツ帝国一絹織物
・西ヨーロッパー木材・鉄・毛織物・ワイン
・アフリカ—金・奴隷

〇カーリミー商人(ムスリム商人のグループ)の活躍(11~15世紀)
アイユーブ朝・マムルーク朝の保護下で活躍
カイロやアレクサンドリアを拠点として、紅海を中心に東西貿易を独占して繁栄

(2024/01/18)

第5章 ヨーロパ世界の形成と発展

[ 1 ] 西ヨーロッパ世界の成立

1.ゲルマン人の大移動(4〜6世紀)

(1)原始ゲルマン社会
 ゲルマン人(インド・ヨーロッパ語族)
 —原住地はバルト海沿岸
 原始ゲルマン人の史料
 ・カエサル『ガリア戦記』(前1世紀中頃)
 ・タキトゥス『ゲルマニア』(後1世紀末)
 部族制(キヴィタス:約50)
 ―王(首長)・貴族・平民・奴隷
 民会—最高決定機関(全会一致制)
 経済活動:牧畜と狩猟
 宗教:多神教(主神ヴォータン)
火葬の習慣

(2)大移動(375〜568年)
 直接的要因:
フン人(北匈奴=アジア系遊牧民)の圧迫
 間接的要因:
土地不足

①フン人の圧迫による東ゴートの服属
→西ゴートのドナウ渡河、ローマ帝国の保護(375年)
=ゲルマン人の大移動の開始
②西ゴートの反乱(アドリアノープルの戦い)→再移動
(西ゴートのローマ侵入→トロサ<トゥールズ>
→トレドへ:イベリア半島に建国)
ローマ帝国、東西に分裂(395:帝国防衛のため)
③ゲルマン諸族(フランク、ブルグンドなど)、ライン川渡河
→ガリア侵入(406)、西ローマ皇帝、定着許可(防衛のため)
(皇帝と王の同盟関係:皇帝の宗主権を認める)
・ヴァンダル人→北アフリカに建国
・ブルグンド人→ガリア東南部に建国
・フランク人→ガリア北部に建国
・アングロ=サクソン人
→大ブリテン島に、アングロサクソン七王国(ヘプターキー)建国
④アッティラ(フン)のガリア侵入
→カタラウヌムの戦い、敗北(451)
→フンの王国崩壊(アッティラの死後)
⑤オドアケル、西ローマ皇帝を追放
=西ローマ帝国の滅亡(476)
→オドアケル王国(イタリア)建国
⑥東ローマ皇帝、東ゴートのテオドリックをイタリアヘ派遣
→オドアケル王国滅亡
→東ゴート王国建国(493)
⑦東ローマ帝国(ユスティニアヌス)、東ゴートを滅ぼす(555)
ランゴバルド(ロンバルド)人、東ローマ帝国領のイタリア侵入(568)
→ランゴバルド王国建国(568)
=ゲルマン人の大移動の終わり

2.フランク王国の成立と発展

(1)メロヴィング朝(481〜751年)
メロヴィング家のクローヴィス、フランク人を統一(481年)
ガリアの大部分とゲルマニアの一部を支配
都(王宮):パリ
正統アタナシウス派(ローマ=カトリック)に改宗(496年)
—教会の支持・ローマ人の協力・征服戦争の正当化(ゲルマン人は異端アリウス派)
→国土(国王の家産)の分割相続で王家の衰退
・アウストリア(東部)
・ネウストリア(西部)
・ブルグンド(南部)の三分国制
→カロリング家(宮宰)により再統一(7世紀末)

カール=マルテル(宮宰=マヨル・ドムス)、トゥール=ポワチエ間の戦いに勝利(732年)
―イスラーム軍(ウマイヤ朝)を撃退
(重装騎士団により)
→メロヴィング朝の実権を握る

(2)カロリング朝(751〜987年)
小ピピン(ピピン3世)、メロヴィング朝を倒す(751年)
—ローマ教皇の支持
ピピン、ラヴェンナ(ランゴバルドから獲得)を教皇に寄進(756年)
=教皇領の起源
・ピピン—王位継承の公的承認が必要
・教皇—“聖像禁止令”(726 年:東ローマ皇帝レオン3世)問題により、後ろ盾が必要

★カール大帝(シャルルマーニュ):全盛期
・東:アヴァール人(アジア系遊牧民族)の撃退(796年)
・西:イベリア半島のイスラーム教徒に遠征
―『ローランの歌』に描かれる
―スペイン辺境伯領を設置
・南:北イタリアのランゴバルド王国を征服(774年)
・北:北独のザクセン人を服従(722〜804年)
→西ヨーロッパの主要部分を統一

カール大帝の帝国:
全土を300の州に分割
各州に伯(グラーフ)を任命
—地方の有力豪族(個人的主従関係)
巡察使を派遣して監視
徴税機構不在
官僚制未整備

教皇レオ3世によるローマ皇帝戴冠(800年)
→西ローマ帝国の復活
★戴冠の意義
・政治的―西ヨーロッパの安定と統一
・宗教的—ローマ教会が東ローマ皇帝から独立
・文化史的―ローマ的要素・キリスト教的要素・ゲルマン的要素の融合
→西ヨーロッパ中世世界の誕生

カロリング=ルネサンス
—アルクイン(英)を都アーヘンに招く

(3)フランク王国の分裂
※分割相続により
〇ヴェルダン条約(843年)
←兄弟による相続争い
・東部(東フランク)—ルートヴィッヒ2世
・中部(イタリアなど)—長男ロタール1世
・西部(西フランク)—シャルル2世
〇メルセン条約(870年)
—ロタールの死後、東・西フランクに分裂
→後のドイツ・フランス・イタリアの基礎

〇東フランク(ドイツ)
カロリング家の断絶(911年)
→選挙王政(諸侯による)
部族大公(ヘルツオーク)(4諸侯)から選出
一血統による選挙制
ザクセン公(北)、バイエルン公(東)、フランケン公(中)、シュヴァーベン公(南)
フランケン公コンラート1世即位(位911~19年)
→ザクセン公ハインリヒ1世即位(位919~36年)
=ザクセン朝(世襲)オットー1世(大帝)、マジャール人(アジア系:ハンガリー人)を撃退(レヒフェルトの戦い:955年)
教皇ヨハネス12世よりローマ皇帝の戴冠
→神聖ローマ帝国の成立(962年)
帝国教会政策
—皇帝が聖職者(司教)の任命権を握ることによって、教会を国家の管理下に置く
(国家の統治機構として利用)
「イタリア政策」
—皇帝のイタリアヘの干渉・遠征
(教皇の保護)
→ドイツ国内の分権化が進む

〇西フランク(フランス)
カロリング家とロベール家(パリ伯)ウードの争い
→カロリング家の断絶(987年)
→パリ伯ユーグ=カペーl即位
=カペー朝の成立(987年)
大諸侯による群雄割拠の状態
(地方権力の国王からの自立、独立)
フランドル伯領、ノルマンディー侯領、ブルゴーニュ侯領、シャンパーニュ伯領(トロワ・ブロワ伯領)、アキテーヌ侯領アンジュー伯領、ブルターニュ伯領など

<ローマ=カトリック教会の成長>

〇 キリスト教の公認(313年:ローマ帝国末期)
→国教化(392年)=正統アタナシウス派(カトリック教会)
〇 五本山(カトリック教会)
ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリア
→ローマ教会、首位性を主張(帝国の首都:使徒ペテロ起源説)
ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇と尊称
→コンスタンティノープル遷都(330年)
→西ローマ滅亡(476年)
コンスタンティノープル総主教、東ローマ(ビザンツ)皇帝の権威を後ろ楯にローマ教会の首位性を否定
→両教会の首位性をめぐる対立激化
教皇グレゴリウス1世、ランゴバルド人の圧力に対抗、ビザンツ皇帝の支配からの離脱
東西教会の対立—聖像崇拝論争
元来キリスト教は偶像崇拝を禁止
ローマ教会は、聖像の使用を容認(異教徒への布教の必要から)
ビザンツ帝国では、修道院勢力が聖像崇拝派(皇帝専制の障害)
→皇帝レオン3世、聖像禁止令を発布(726年)
ローマ教会は、ビザンツ皇帝にかわる政治勢力を新たに求める
フランク王国の登場
—宮宰カール=マルテルの活躍(イスーラム軍撃退)
カロリング家(実質的な支配者):
メロヴィング王家にとって変わるためには何らかの権威が必要
教皇、北からのランゴバルド王国の南下に苦しみ、有力な保護者を待ち望む
小ヒヒン、クーデタにより即位(751年)
←教皇の祝福・支持
小ピピン、これに応えてイタリア遠征を行う(754年, 756年)
→ランゴバルド人を討って領土を奪い、
ラヴェンナ地方を教皇に献じる
=「ピピンの寄進」により教皇領が成立

3.ノルマン人の侵入・活動
(第二次「民族移動」:9〜11世紀)

・原因:人口増による耕地不足(狩猟・漁業)
→商業や海賊・略奪行為
ノルマン人(北ゲルマン人の一派)
=ヴァイキング
・原住地
—スカンディナヴィア]半島・ユトランド半島
・3部族
—スウェード人(スウェーデン)、ノール人(ノルウェー)、デーン人(デンマーク)

(1) ロシア方面(9世紀)
ルス族(スウェード人)の首長リューリク
→ノブゴロド国建国(862)
スラブ人を支配=ロシアの起源
摂政オレーグ→南下して、キエフ公国建設(882年頃)
ウラディミール1世(980〜1015)
—ギリシア正教に改宗、東ローマ帝国と通商

(2) フランス方面(10世紀)
ノルマン人の首長ロロの侵略
→フランス王(カロリング朝:シャルル3世)、セーヌ川下流域を封土として授与(臣従の誓い)
=ノルマンディー公国の成立(911年)

(3) イングランド(イギリス)方面
アングロ・サクソン王国(七王国)
→エグバート(ウェセックス王)の統一(829年)
→デーン人の侵入(デーン=ロウ地方)
アレフレッド大王の登場(9C.末)
→一時撃退、南西部の独立
→大王の死後、再びデーン人の侵入
クヌート(デーン人:デンマーク王)
→イングランド支配(デーン朝)
クヌート、ノルウェー王を兼ねて一大海上帝国を建設
→死後崩壊
エドワード(証聖王)(ウェセックス王家:アングロサクソン系)即位
→エドワードの死後、王位争い
(義弟ハロルド対ノルウェー王ハーラル)
→ノルマンディー公ギョーム(ウィリアム)の侵入・勝利
(ヘースティングスの戦い:対ハロルド:1066年)
=ノルマン=コンクエスト
—ギョーム(ウイリアム)]はウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を建設
「ドゥームズディ=ブック(土地台帳)」を作成
—国家財政の充実を図る

(4) 南イタリア方面(12世紀:ノルマンディー公国からノルマン騎士の活躍)
ロベール=ギスカール(オートヴィル家:兄)
—イタリア半島の南部征服
ルッジェーロ1世(弟)
—シチリア征服
ルッジェーロ2世、イスラームを撃退→両国を継承
=両シチリア王国(南イタリアとシチリア)を建国(1130)

4. 封建社会の成立

(1)封建制(フューダリズム)
主君:
家臣に封土(領地)を与えて保護
家臣:
主君に忠誠を誓って軍事的奉仕義務
=封建的主従関係(双務的関係)
複数の主君可

封建制の起源
=ローマの恩貸地制+ゲルマンの従士制
恩貸地制:
有力者に土地を献上して保護下、その土地を恩貸地として貸与
従士制:
貴族や自由民の子弟、有力者に忠誠を誓って従者に(衣食・武器貸与)

(2)荘園制(領主の所有地)
〇 古典荘園(12〜13世紀)
=領主直営地+農民保有地+入会地(共有地)
〇 純粋荘園(14世紀以降の荘園)
=農民保有地+入会地(共有地)

〇 農奴(半自由民)の義務
・賦役—労働地代
・貢納—生産地代
・結婚税
・死亡税(相続税)
・十分の一税—収穫の1/10を教会に納める

〇 領主の特権
・領主裁判権―荘園内部
・不輸不入の権(インムニタス)
—国王官吏の荘園の立ち入り・課税免除
〇 農地制度
三圃制
=春耕地(大麦・燕麦)+秋耕地(小麦・ライ麦)+休耕地(放牧)
—三年で一巡(開放耕地制)
—重量有輪犂を使用

<領主制と封建制について>

中世のフランスにおいて、領主制は異民族の侵攻や戦乱のための公的秩序の乱れにより、人々が身近の直接的な人間関係に頼ることにより成立しました。
それには、歴史的な先行物がありました。

一つは、ガロ(ガリア=現フランス)・ローマ時代の大土地所有制です。
そこでは、貴族(地主)と家内奴隷・隷属的身分は、国家の法によって縛られていました。
しかし、ゲルマン人の侵入など国家の法秩序の乱れにより、有力地主と奴隷や耕作農民とは直接の<保護=奉仕>の関係に移行しました。

もう一つは、ゲルマン人の国家の「従士制」と「恩貸地制」です。
「従士制」は有力者に忠誠を誓って従士になるかわりに保護を受ける制度。
「恩貸地制」は、従士が騎馬戦士として奉仕する代わりに士地を「恩貸地」として与えられる制度です。(ただし、自由人の契約関係でした。)

しかし、ノルマン人やイスラーム教徒の侵入・内乱のため、部族国家の公的秩序は乱れ、「恩貸地」はしだいに世襲的な「封」となり、これをもつ職業的戦士は土地の世襲的主人となりました。

そして、農民は、身近にいるこのような有力者に保護を求めました。
つまり、戦士は単なる「地主」ではなく「命令権」をもつ「領主」になり、さらに、自由人だった周辺の農民もしだいに領主の保護下に入り「領主制」が一般化しました。

こうして、「荘園」となった領主の土地は、領主「直轄地」と農民「保有地」とに分けられ、直領地が、「農奴」身分の賦役によって耕作されました。

領主となった有力者自身も、自己保存のためにもっと有力な領主の保護下に入ってその従士となり、領主と領主の間、領主と農民との間に直接的な<支配=従属>関係の複雑なネットワークが形成されました。

前者の領主間の関係をさすのが狭義の「封建制」。
後者をも含めた階層的な政治社会構造をさすのが、広義の「封建制(封建社会)」の概念です。

封建社会の領主の最盛期は10世紀から13世紀までであり、近世に入ると封建制は存在しないが、領主制は存続しました。
フランス革命期に廃止された「封建制」とは領主制のことです。

(柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年より)

5.教権と帝権の抗争

(1)ローマ=カトリック教会の発展
階層制(ヒエラルキー)
—教皇・大司教・司教・司祭(教皇・大司教・司教・修道院長などは聖界諸侯)
東西教会の分離(1054)
—ローマ=カトリック対ギリシア正教

(2)修道院運動
①ベネディクト派修道会
ベネディクトスにより:伊モンテ=カッシノ:529年創立)
”祈り、働け“(会則)
—自給自足の生活修道士
一清貧・貞潔・従順が求められた
②クリュニー修道院(仏)の改革運動(910年創立:ベネディクト派)
聖職売買(シモニア)禁止・聖職者の妻帯の禁止など
※「私有教会制」(アイゲンキルヘ)
—創建者が教会の長を任命
「神の平和運動」(パックス・デイ)運動
→私闘(フェーデ)の禁止
③シトー修道会
一聖ロベルトゥスにより(仏:1098年創設)
—開墾運動で活躍
④托鉢修道会
・フランチェスコ修道会(伊アッシジ:1209年)成立
—清貧を理想、財産所有を否定
→教皇イノケンティウス3世公認
・ドミニコ修道会(南仏:1215創立)
—財産所有の否定

★聖職叙任闘争(11~12C)
ローマ教皇←→神聖ローマ(独)皇帝
(聖職叙任権=「帝国教会政策」にとり必要)
※教皇庁の改革
—枢機卿による教皇選出を決定
(教権の独立宣言=皇帝権の排除が目的:1059年)
※「教皇教書」により教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言(1075)
・カノッサの屈辱(1077)
教皇:
グレゴリウス7世(クリュニュー修道院出身)対
皇帝:ハインリッヒ4世
→破門され、屈服(独での諸侯の反乱)

ヴォルムス協約(1122年)
―教権と帝権の和解・妥協成立
(聖職叙任権闘争に幕)
教皇:カリストゥス2世
皇帝:ハインリッヒ5世
・司教や修道院院長は教会法により選出
(皇帝は叙任権放棄)
・封建領主としての司教は皇帝の臣下
(霊的権威の授与は教皇、世俗的権利の授与は皇帝が行う)
→皇帝は独の教会に対する実質的影響力を保持

6.ビザンツ(東ローマ)帝国の盛衰(395〜1453年)
都:コンスタンティノープル

(1)前期(4〜6世紀)
テオドシウス帝、ローマ帝国を2分(395年)
ゲルマン民族移動期、西ゴート族一時侵入
→その後、影響受けず
〇 ユスティニアヌス1世(位527〜565年)
—最盛期
・ヴァンダル王国、東ゴート王国を滅ぼす
→地中海一時回復
・ササン朝(ホスロー1世)と抗争
・皇帝教皇主義確立
—皇帝が政治・宗教両面の最高権力を保持
・『ローマ法大全』編集(法学者トリボニアヌス)
・セント=ソフィア聖堂(ビザンツ様式)建設
・養蚕技術の導入
死後、ランゴバルド(ロンバルド)族・ササン朝の侵入→領土縮小

(2)中期(7〜10世紀)
〇 へラクレイオス1世(位610〜641年)
軍管区制(テマ制)施行
—全領域を軍管区(テマ)に分けて屯田兵(世襲:兵役義務、土地給付)をおき、軍団司令官が、軍管区の行政を兼務
→自由農民層の誕生
〇 レオン(レオ)3世(位717〜741年)
聖像禁止令(726年)→聖像崇拝論争
→東西教会の分離
〇 マケドニア朝時代(867〜1057年)
—中期の最盛期
・バシレイオス1世(9世紀)、バシレイオス2世(10世紀)
・イスラム帝国の分裂により失地回復(クレタ島、アルメニアなど)
・スラブ民族の改宗(ウラディミール1世)

(3)後期(11〜15世紀)
衰退
—バルカン半島のスラブ民族自立、セルジューク朝の台頭
〇 アレクシオス1世(位1081〜1118年)
—コムネノス朝
・プロノイア制(土地制度)の導入
—皇帝が、軍事奉仕の代償に、地方領主に国有地の管理を任せる→封建化
・セルジューク朝の侵入を受け、西欧に対イスラム援軍要請(十字軍)
・ラテン帝国(1204〜61年)
―第4回十字軍による、コンスタンティノープル占領
→ニケーア帝国建設、復活(1261年:ミハエル1世)
・滅亡(1453年)
オスマン=トルコの侵入
→メフメト2世、コンスタンティノープル陥落
→イスタンブールと改称

(2024/01/19)

[ 2 ] 西ヨーロッパ世界の発展と変容

1. 十字軍(11世紀末~13世紀末)

(1)背景
巡礼熱(11~12世紀)の高まり
—三大巡礼地(ローマ・イェルサレム・サンチャゴ=デ=コンポステラ)
=十字軍は長期にわたる集団巡礼という性格
生産力の向上
→人口増加による土地不足
→西欧の外への拡大運動

(2)原因
セルジューク朝
—小アジア進出
(ルーム=セルジューク朝建国)
イェルサレム占領(1071年)
ビザンツ皇帝(アレクシオス1世の西欧への救援要請(1095年)
→クレルモン宗教会議の開催(教皇ウルバヌス2世により)
→教皇、聖地回復提案
※叙任権闘争の渦中、教皇権優位確立の機会
政治的野心:
・ローマ教皇
—東方教会を再び吸収・統合する機会
・国王・諸侯
—領土に対する世俗的野心
・イタリア諸都市—地中海の商圏拡大をねらう

(3)内容
第1回(1096~99年:仏諸侯中心)
※教皇「贖宥」特権を与える
=トゥールズ伯・フランドル伯・プロワ伯・ロレーヌ大公
セルジューク朝(スンナ派)対ファーテイマ朝(シーア派)の内紛
→聖地占領(当時ファーテイマ朝支配下:大量虐殺)
→イェルサレム王国建設(1099~1187年:初代王:コドフロア=ド=ブイヨン)
聖地4国:
・アンティオキア公国
・エデッサ伯領
・トリポリ伯領
宗教騎士団の設立
—聖地巡礼者の保護と異教徒の討伐が目的
・ヨハネ騎士団(1113年)
・テンプル騎士団(1119年)
・ドイツ騎士団(1198年)
=三大宗教騎士団
イスラームの反撃(1146年)
—エデッサ伯領、アンティオキア公国東半分奪還
第2回(1147~1149年)
—独皇帝コンラート3世・仏王ルイ7世
シリアのダマスカス攻略、失敗
第3回(1189~92年)—最大規模
原因:イェルサレム王国陥落(1187年)
サラディン(アイユーブ朝:スンナ派:

反十字軍の統一勢力>)により
・英王リチャード1世
・仏王フィリップ世—アッコン陥落後帰国
・独皇帝フリードリッヒ1世
—小アジアで事故死(不死伝説)
英王リチャード、サラディンと戦う
→休戦・講和
—キリスト教徒の聖墓巡礼を認める保障、聖地奪回失敗
※ドイツ騎士団成立(アッコンにて:1190年:再編1198年)
→帰国後、東方植民で活躍
第4回(1202~1204年)
教皇イノケンティウス3世が提唱(全盛期)
“教皇権は太陽であり、皇帝は月である”(ラテラン公会議:1215年)
コンスタンティノープル占領(1204年)
—ヴェネチア総督(ダンドロ)の要求(地中海貿易の独占を狙う)
→ラテン帝国を建設(1204~61年:フランドル伯ボードワン、皇帝就任)
※少年十字軍の登場(1212年)
—奴隷として売られる
第5回(1228~29年)—破門十字軍
独皇帝フリードリッヒ2世(親イスラーム)、一時聖地イェルサレム回復
—アイユーブ朝スルタン(アル=カーミル)との外交折衝により
→ホラズム系トルコ人により再び奪われる(1244年)
第6回(1248~54年:エジプト・マムルーク朝へ侵攻)
—仏王ルイ9世(カペー朝)、失敗
第7回(1270年:チュニスヘ侵攻)
—ルイ9世病死
※アルビジョワ十字軍
—ルイ9世、南フランスの異端討伐(1209~29年)
マムルーク朝(モンゴル軍撃退)により、アンティオキア公国(1268年)、トリポリ伯国(1289年)、アッコン(1291年)陥落により、聖地回復の夢は完全についえる。

(4)十字軍の影響
・ビザンツ帝国の衰退が加速
・教皇の権威は、十字軍の失敗によって揺らぐ
・諸侯・騎士は全体的に勢力を失う。
(前線で戦う)
・国王は、指導力や諸侯・騎士の遺領を没収し相対的に力を強める。
・北イタリア諸都市の繁栄
一兵士と物資の輸送やビザンツ商人にかわって東地中海に商圏拡大
→東方貿易から莫大な富を得る

2.中世都市の成立と主要商業圏

(1)都市の成立
・中世初期、イスラーム・ノルマン人の侵入
→自給自足の荘園経済
→11、12世紀イスラーム・ノルマンの勢力後退
・農業生産力の上昇→余剰生産物の交換
→商工業者の定住→都市の成立
→定期市の誕生
・貨幣経済の普及
—イスラーム商人・ノルマン人の活躍により普及商業・貨幣経済の復活
=「商業ルネサンス(アンリ=ピレンヌ)
→自治都市の誕生(都市が封建領主と抗争し、自治権を獲得)
“都市の空気は自由にする” (ドイツでのことわざ)
・自治都市(都市共和国コムーネ)
—北イタリアの都市国家自治権を得て完全に独立
・自由都市(完全独立)・帝国都市(皇帝に直属、貢納・軍役の義務:諸侯と同格)
—一括して「自由帝国都市」、自治権を得たドイツ都市

(2)ギルドの形成
商人・手工業者の同職組合
・商人ギルド(11~12世紀)
—大商人中心(市政独占)
・同職ギルド(13世紀:ツンフト)
—大商人の独占に対して手工業者が分離して結成(ツンフト闘争)
目的:
ギルド員の独占維持と相互扶助
徒弟制度:
親方(ギルド員)・職人(有給の技術者)・徒弟(無給)
役割:
ギルド的規制(生産・労働に厳正な制限)

(3)北海(バルト海)商業圏
毛織物・木材・海産物などの日用品の交易
フランドル 地方とハンザ同盟諸都市からなる。
フランドル地方( 毛織物工業)
アントウエルペン(アントワープ)リュージュ、 ガン、 ブリュー ジュなど
ハンザ同盟—13~17世紀に成立
北ヨーロッパの都市の連合体(約200)
—バルト海の商業を独占
盟主:リューベック
在外四大商館:ロンドン、 ブリュージュ、ベルゲン、ノブゴロド
有力都市:ハンブルク、 ブレーメン、 ケルン、 ダンツィヒなど

(4)内陸商業圏
バルト海商業圏と地中海商業圏を結びつける(12~13世紀)
シャンパーニュ 地方の諸都市
—中間的集散地(年6回定期市)
ランス、 トロワ、 プロヴァンなど
南ドイツ(ライン ドナウ川流域)
—アウグスブルグ(フッガー家)、ニュルンベルグなど

(5)地中海商業圏―北イタリア都市
・海港都市
ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサなど
東方貿易 (レヴァント貿易:香料(香辛料)絹など)の利益を独占
・内陸都市
フィレンツェ(毛織物:メディチ家の支配)、
ミラノ(北ヨーロッパとの交易:ヴィスコンティ家の支配)
毛織物や南ドイツ産の銀を東方の香料(香辛料)と交換
・ロンバルディア同盟結成(12世紀)
—北イタリアの主要都市の軍事同盟神聖ローマ皇帝に対抗
中心都市:ミラノ、クレモナ、 ボローニャなど

3. 中世世界の変質と崩壊

(1)封建社会の崩壊
〇荘園制の解体(古典荘園→純粋荘園)
・貨幣経済の進展により地代の金納化(生産物地代→貨幣地代)が進展
→農奴解放→独立農民(英:ヨーマン)の出現
・ペスト(黒死病)の流行(14世紀中頃)
→労働人口の激減
→農奴解放を促進
・封建反動(諸侯や国王)
→農民一揆の勃発(英仏百年戦争中)
ジャックリーの乱(1358年)
—フランス(指導者ギョーム=カルル)
ワット=タイラーの乱(1381年)
—イギリス “アダムが耕し、イブが紡いだとき、誰が領主だったのか”
(思想的指導者: ジョン=ボールの言葉)
→鎮圧される
〇封建制度(封建的身分秩序)の崩壊
・諸侯・騎士の没落
火砲(火器)の使用
→戦術の変化→騎士の存在価値が低下、没落諸侯・騎士は国王の廷臣化
・王権の強化(中央集権化)

(2)教会勢力の衰退
〇教皇権の失墜
・聖職者への課税に関して
教皇ボニファティウス8世と仏王フィリップ4世が対立
→フィリップ4世、三部会招集(1302年)
—聖職者・貴族・平民による身分制議会(国王支持)
・アナーニ事件(1303年)
—フィリップ4世が教皇を捕らえる
・「教皇のバビロン捕囚」 (1309~77年)
—フィリップ4世によりアヴィニョン]に教皇庁が移される
・シスマ(教会大分裂:1378~1417年)
—アヴィニョンとローマに教皇が並び立つ

〇宗教改革の先駆
・ウィクリフ(14世紀:英)
—聖書中心主義を唱え、聖書を英訳
・フス(14~15世紀:ベーメン)
—ウィクリフの説を支持
・コンスタンツ宗教会議(1414~18年:独皇帝ジキスムント開催)
シスマ(教会大分裂)を解消→教会の再統一
ウィクリフ(異端)・フス(異端→焚刑:1415年 )
→フス戦争勃発

(3) イギリス・フランスの中央集権化
〇イギリス
ノルマン朝(1066~1154)
ウイリアム1世(征服王)
—王権の強い独自の中央集権的封建制度を確立
・プランタジネット朝(1154~1399)
英のノルマン朝断絶
→仏アンジュー伯アンリ→ヘンリ2世]として即位
—フランス国内に広大な領地を所有
リチャード1世
一第3回十字軍で活躍
ジョン王(欠地王)
←→仏王フィリップ2世と争い、大陸領土の大半を失う
教皇イノケンティウス3世と争い破門され、屈服
マグナ=カルタ(大憲章:1215年)を発布
—大陸遠征、失敗→貴族の反抗により
→諸侯の課税承認権、教会、都市の伝統的特権尊重

〇イギリス議会の起源(1265年)
・シモンド=モンフォールの議会
—ヘンリ3世、マグナ=カルタを無視
→貴族の首領モンフォール、ヘンリ3世を破る
→従来の封臣会議に州の代表(騎士)と都市の代表(市民)を加える

・模範議会(1295年)
・エドワード1世—大ブリテン島の統一をめざす
ウェールズ征服、次いでスコットランド遠征のための軍事費の必要性
→新規課税の承認を得るために、
・諸侯・高位聖職者の集会(後の貴族院)
・騎士(各州2名)・市民(各市2名)の集会(後の庶民院)を召集
→その後の議会の模範となる
・エドワード3世(位:1327~77年)の時代
上院(貴族院)・下院(庶民院)の二院制成立(1341年)
※身分制議会—国王の諮問機関(新規課税審謡:立法権をもたない
英の議会(パーラメント;二院制)
仏の三部会(聖職者・貴族・平民)
〇フランス
・カペー朝(987~1328年)
—王権弱体→諸侯分立
・フリップ2世:
英王ジョンと争い、大陸の英領の大半を奪う
・ルイ9世:
アルビジョワ派の異端(南仏)を征服
→王領拡大・王権伸長
十字軍(第6·7回)を指導
・フィリップ4世:
三部会を招集(1302)教皇ボニファティウス8世と争う
「教皇のバビロン捕囚」(1309~77年)が始まる
テンプル騎士団、異端として解散所領・財産没収
→王権強化
※「王の奇蹟(きせき)」
—王の神聖化を喧伝→王権の強化に利用
・ヴァロワ朝(1328~1589年)
—フィリップ6世(初代)
→百年戦争が始まる

(4) 英仏百年戦争
〇原因
フランスのカペー朝断絶(シャルル4世)
→ヴァロワ朝のフィリップ6世が即位(1328)
・イギリス王エドワード3世がフランス王位継承権を主張
(アンジュー帝国の再現をもくろむイギリスの野心)
・経済的要因—フランドル地方(現ベルギー:毛織物産地)と
ギエンヌ地方(プドウ産地)の支配権をめぐり争う

〇経過
—戦場は大陸
前期(1339~15世紀初)
—常にイギリス優勢(大砲;長弓により)
・クレシーの戦い(1346年)
—英エドワード3世、勝利
→カレー占領(1347年 :「カレーの市民」)
・ポワティエの戦い(1356年)
—エドワード黒太子勝利
←→仏王ジャン2世(捕虜)
→ブレティニー(=カレー)条約(1360年)により英領拡大

・後期(15世紀初~1453年)
英王ヘンリ5世(ランカスター朝)のノルマンディー侵入(1415年)
—アザンクールの戦い、英勝利
←→仏王シャルル6世敗北(狂気)
オルレアン公(アルマニャック派)・シャルル王太子
←→ブルゴーニュ公(反国王派:英と同盟)
→トロワ条約(1420年)
—英王ヘンリ6世、仏王として即位
—国土三分(北部:英;東部:プルゴーニュ公;南部:シャルル)
オルレアンの戦い(解放)(1429年)
—ジャンヌ=ダルクの活躍 (シャルル7世即位:ランスにて)
→ジャンヌ、魔女として処刑(1431年)
→シャルル、ブルゴーニュ公とアラスの和約(1453年)
カステイヨンの戦い(1453年)—仏勝利
カレーを除く全国土からイギリス勢力を駆逐(百年戦争終了)

〇結果
・フランスの勝利
封建諸侯・貴族の没落→仏国王による中央集権化 ジャック=クール(シャルル7世の財務官)の活躍

・イギリスの敗北→大陸の領土をほとんど失う
→バラ戦争(1455~85)
=ランカスター家←→ヨーク家の王位をめぐる争い
英の諸侯・貴族の没落
→テューダー朝ヘンリ7世の収拾
→英国王による中央集権化

(5)ドイツ・イタリアの分裂
〇ドイツ(神聖ローマ帝国)
・12世紀:(ホーエン)シュタウフェン朝(全盛期)
フリードリッヒ1世(12世紀中頃)
イタリア政策(干渉政策)
→遠征(1154年~前後5回)
←→ロンバルディア]同盟(北イタリア諸都市:1168年)に敗北
第3回十字軍に参加(水死:不死伝説を生む)
フリードリッヒ2世 (シチリア王:フェデリーコ2世)
王宮:パレルモ
第5回十字軍遠征→平和的にイェルサレム占領
ナポリ大学創設—官僚を養成(ローマ教皇に対抗して)
→ドイツは諸侯の分断統治に任せる(分断の固定化)
・13世紀:シュタウフェン朝断絶(血統権による二重選挙制:諸侯選挙)
→選帝侯による選定:全会一致)
→大空位]時代(1256~73年:英仏の介入:実質的に皇帝不在)
二人皇帝の両立・対立:
・英王ヘンリ3世の弟(リチャード)=ヴェルフェン派支持
・カスティリヤ王(アルフォンス)=シュタウフェン派支持
→ルドルフ1世(ハプスブルク家)即位(1273年:大空位時代に幕)
・14世紀:カール4世(ルクセンブルク朝) 「金印勅書」発布(1356)
—七選帝侯による皇帝選出権の明文化(多数決)
マインツ・トリール・ケルン (三大司教:聖界)
ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン公]・ファルツ伯(四大諸侯:世俗)
→有力諸侯の自立化(領邦国家=テリトリウムの形成:約300)
—裁判権・貨幣鋳造権・関税徴税権などを認める
・15世紀:ハプスブルク家(オーストリア)の帝位世襲(1438~1806)
—アルブレヒト2世以降

〇スイスの独立
・13世紀以降:オーストリア(ハプスブルク家)に対し独立運動
ヴィルヘルム=テル伝説
・14~15世紀:事実上独立
→ウェストファリア条約で独立承認(1648年)

○イタリア
・両シチリア王国(南イタリア王国) (1130~1860年)
12世紀:ルッジェロ2世
(ノルマン人)の建国
都: バレルモ
12世紀末~:
神聖ローマ帝国の支配(シュタウフェン朝)
13世紀:アンジュー家(仏)の支配
→“シチリアの晩鐘“事件(1282年)
15世紀:アラゴン王(スペイン)の支配
イタリアの分裂:
・教皇領(中部)
・都市共和国(北部)
:ヴェネチア共和国・ジェノヴア共和国、フィレンツェ共和国など
・ミラノ公国:ヴィスコンティ家の支配
皇帝党(ギベリン:封建貴族支持)と教皇党(ゲルフ:都市の自治体が支持)の対立
・外国勢力の侵入(神聖皇帝・仏王など)
→分裂
・地中海貿易の発達→都市・市民階級の台頭
→ルネサンスへ

(6) イベリア半島
レコンキスタ(国土回復運動)
・ウマイヤ朝による西ゴート王国の滅亡(711年)の直後から開始
・イスラーム王朝の支配
8世紀半~11世紀:後ウマイヤ朝
都:コルドバ
13世紀~1492:ナスル朝
都:グラナダ
—アルハンブラ宮殿の建設

・レコンキスタの進展
ポルトガル王国がカスティリヤ王国から独立(12世紀)
カスティリヤ王国(女王イサベル)と
アラゴン王国(国王フェルナンド5世)の結婚(1469年)
・合併(1479)
→スペイン王国の成立(共同統治)
グラナダ陥落(1492年 :レコンキスタの完了)
・海外進出(大航海時代へ)
コロンブスの西航←イサベルの援助
マゼランの部下の世界一周←カルロス1世の命令

〇ポルトガル
15世紀前半:
エンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検を奨励
15世紀後半:
ジョアン2世
—封建貴族の反乱を鎮圧し、絶対主義の基礎を確立
→東方航路開拓を奨励
→バルトロメウ=ディアスの喜望峰発見(1488年)

(2024/01/20)

第6章 東アジア世界の形成と発展

[ 1 ] 宋と北方民族

1. 五代十国(907〜960年)

華北の五王朝と周辺の10国(華北:北漢例外)の総称
= 節度使(藩鎮)による武断政治(武力による専制的政治)
※ 十国(前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩(びん)・荊(けい)南・楚・南漢・北漢)
五代の都:汴(べん)州(開封)

【五王朝】
・後梁(907〜23年):建国者(朱全忠)
黄巣の乱に登場、唐を滅ぼす
・後唐(923〜36年):
建国者:李存勗(きょく)(荘宗:突厥系)
都:洛陽(五代の例外)
・後晋(936〜46年)
建国者:石敬瑭(高祖:突厥系)
→北方の遼に燕雲十六州を割譲(936年)
・後漢(947〜50年)
建国者:劉知遠(高祖:突厥系)
・後周(951〜960年)
建国者:郭威(太祖)
—2代世宗の仏教弾圧(955年:三武一宗の法難)

2.宋(960〜1279年)

(1) 北宋(960〜1127年)
 後周の武将趙匡胤(太祖)が建国(960)
 ※恭帝より禅譲(最後の禅譲)
 都:開封
 君主独裁体制の強化
(軍事・行政・財政の全ての最終決定権を皇帝が握る)
 文治主義を採用
 —藩鎮に変えて文官を重用(節度使の廃止)
 科挙の整備
 —殿試の創設(皇帝自らの最終試験)
 —官僚はすべて科挙合格者(進士科)
 →士大夫階級の成立(科挙出身の高級官僚など)
※「解試」(州)→「省試(会試)」(中央)→「殿試」

〇 中央官制
・ 中書(・門下)]省—民政
・枢密院
 —軍事(禁軍=皇帝近衛軍:廂軍(地方:辺境防備)
・御史台—監察
・三司—財政
 
太宗(2代)の中国統一(979年:北漢征服)
—燕雲十六州を除く
澶淵の盟(1004年)
—宋(真宗])と遼(聖宗)の和平条約
=宋と遼の兄弟関係(宋が遼に「歳幣」を贈る)
※絹20万匹、銀10万両
→財政難(和平費・軍事費・人件費(官吏の増加)
→宰相王安石(神宗)の富国強兵策(1069〜1076)

★ 王安石の新法

<富国策>
・青苗法—中小農民への低利融資
・市易法—中小商人への低利融資
・均輸法—物価の安定流通
・募役法—労役の代わりに免役銭を徴収、希望者を募集
・放田均税法—耕地を5等に分け、地税の公平化を図る

<強兵法>
・保甲法—農閑期に農民を軍事訓練(兵農一致)
・ 保馬法—平時に農民に軍馬を貸与し、戦時に徴

保守派(地主・大商人など)の反対→王安石の失脚
→新法党と 旧法党(保守派:中心人物宰相 司馬光)の抗争
→政治の混乱を招く
方臘の乱(1120〜21年)
—農民反乱の勃発
靖康の変(1216年)
—金が開封を占領、上皇の徽宗・皇帝の欽宗を北方へ連行
=北宋の滅亡

(2) 南宋(1127〜1279年)
高宗]が建国
都: 臨安(現:抗州)
対金政策が政策の中心
・主戦派の岳飛
・和平派の秦檜が対立
 →和平派の勝利
→金と和約(紹興の和議:1142年)
—臣礼を結ぶ(主君金:臣下南宋)
―淮河(水)を国境と画定
元のフ(ク)ビライにより滅亡(1279年)

(3)宋代の社会と経済

〇 新支配層の成立
貴族の没落→官僚(官戸・士大夫・形勢戸)
=新興地主層の台頭 
荘園(大土地所有)の拡大
佃戸(でんこ:契約的小作人)制の発達
〇 経済の発展
・江南の開発→ 占城稲(チャンパ米)の普及
“ 江浙(蘇湖)熟すれば天下たる”
—長江下流域(囲田、圩(う)田、湖田) 
稲と麦の二毛作
茶の栽培(商品作物)→輸出品
・宋磁(白磁・青磁)
— 景徳鎮](江西省)が中心
・市舶司が広州・泉州(南宋最大の貿易港)・明州(寧波)等に設置
・交子(北宋:世界最初の紙幣)・会子(南宋)の発行
・行(商人の同業組合)・作(手工業者の同業組合)の成立
・草(交易場)→鎮・市(新興都市)の成立
瓦市(がし)(繁華街)の登場
纏足(てんそく)の普及

3. 北方民族

(1) 遼(916~1125) =征服王朝(ヴィット=フォーゲル)
契丹族(モンゴル系)の耶律阿保機(太祖)が建国(916年)
都:臨潢
中国東北地方の渤海を征服(926年)
五代の後晋の建国を援助
→燕雲十六州を獲得(936年:2代太宗)
→華北へ進出、後晋を滅ぼす(946年)
宋と澶淵の盟を結ぶ(1004年:6代聖宗)

★二重統治体制を施行

・遊牧民(契丹族)—部族制
北面官(統治官庁)
北枢密院
—最高機関(政治・軍事)
・農耕民(漢民族)—州県制
南面官(統治官庁)
南枢密院(民政:漢人)

契丹文字
—隷書(漢字)をもとに、ウイグル文字を加える
(末解読:大文字と小文字)
仏教の流行
—『契丹大蔵経』の作成、白塔の建設
漢化の進行により衰退
→金により滅亡(1125年)
→耶律大石、カラ=ハン朝(トルコ系:イスラーム王朝)を倒して、中央アジアで西遼(カラキタイ)を建国(1132年:都ベラサグン)

(2)西夏(大夏:1038~1227年)
タングート(党項)族(チベット系)の李元臭により建国(1038年)
都: 興慶(現:甘粛省銀川)
北宋と和約—慶暦の和約(1044年)
=西夏(臣)が北宋(君)に臣礼をとる(歳賜として絹、銀、茶)シルクロードの交易(東西貿易)により繁栄
西夏文字を作成
—漢字を基礎(表意文字と表音文字から:解読)
モンゴル帝国のチンギス=ハンにより滅亡(1227年)

(3)金(1115~1234年)
女真(直)族(ツングース系)の完顔阿骨打(太祖)により建国(1115年)
都: 会寧(現:ハルビン市)
遼(1125年)、
北宋(1127年)を征服=靖康の変
南宋と和約—紹興の和議(1142年)
4代海陵王:全盛期

★二重統治体制
・猛安・謀克制(部族制:女真族)—軍事・行政組織
行政—300戸を1謀克(部)→10謀克を1猛安(部) (3000戸)
(その長を、それぞれ謀克.猛安と呼ぶ)
軍事—1謀克(部)から100人を徴兵(謀克軍)、猛安軍(1000人)
・州県制(漢民族)
→中国文化に同化、弱体化

女真文字—契丹文字と漢字をもとに作成(表意文字と一部表音文字)
全真教(道教の一派)の流行
—王重陽の創始
←→正一教(江南:南宋)と対立
交紗(紙幣)の乱発→経済の混乱
→オゴタイ=ハンにより滅亡(1234年)

(2024/01/21)

[ 2 ] モンゴル帝国と元

1.モンゴル帝国(ウルス)の成立(13世紀)

(1)チンギス=ハン(カン)(太祖・成吉思汗)
 ①テムジン、モンゴル民族を統一
→クリルタイ(会議)によるハン選出(1206年)
 ②耶律楚材(遼の皇族)の採用
 ③千戸の制—行政・軍事制度を整備(兵農一致)
 ④ナイマン部(1218年)、ホラズム(1220年:トルコ系:都サマルカンド)を征服
→東西交易路を支配
 ⑤西夏を征服、チンギス=ハン病死(1227年)

(2)2代オゴタイ(オゴデイ)=ハン(太宗)
 ①金を滅ぼす
 ②都:カラコルム(和林)
 ③楚材—漢人の支配を任せる
  チンハイーウイグル人の支配を任せる
 ④バトゥの遠征(1236〜41年)
→ワールシュタットの戦い
—独・ポーランド諸侯を破る(1241年)
→南ロシアにキプチャック=ハン国を建国(1234年)

(3)4代モンケ(マング)=ハン(憲宗)
 ①弟フビライ(クビライ)
—チベット・雲南・ヴェトナムに遠征
→大理を滅ぼす(1253年)、高麗を服属(1259年)
 ②弟フラグ
—西アジアに遠征
アッバース朝を滅ぼす(1258年)
→イル=ハン国(フレグ=ウルス)を建国

(4)5代フビライ(クビライ)=ハンの即位
→ハイドゥの乱(1266〜1301年)
 →モンゴル帝国の分裂(宗主権は認める)

2.四ハン国

※タタールの平和(パクス・タタリカ)
—東西交流のネットワーク

①オゴタイ(オゴデイ)=ハン国(1225頃〜1310年)
都:エミール
西北モンゴル(ジュンガリア地方)を支配
ハイドゥの乱後衰退→チャガタイ=ハン国に併合
②チャガタイ=ハン国(1227年〜14C.後半)
都:アルマリク
中央アジアを支配(西域地方—絹の道:サマルカンド中心)
14世紀に内紛で分裂
→西よりティムール出現、征服される
③キプチャック=ハン(カン)国(1243〜1502年)
都:サライ
南ロシアを支配
ウズベク=ハン(位:1312〜40年:最盛期)
モスクワ大公国(イヴァン3世)の自立
→衰退、滅亡
(クリム=ハン国により)
※「タタールのくびき」
—ロシアの諸侯、朝貢
④イル=ハン国(フレグ・ウルス:1258〜1353年)
都:タブリーズ
イラン地方を支配
ガザン=ハンの時代にイスラム教を国教化(全盛期:13世紀末) 
ラシッド=ウッデーン(宰相・歴史家)を登用
 『集史』の編纂(世界史上初めての世界史)
→ティムールにより滅亡

3.元朝(大元ウルス :1271~1368)

(1) フビライ(クビライ)=ハン(世祖)の建国
国号を元とする(1271年)
都:大都(現北京:1264)
→新運河の開削、旧運河の補修(抗州~大都)
・征服した地域
南宋を滅ぽして中国統一(1279:厘山の戦い)
バガン朝(ミャンマー=ビルマ最初の統一王朝)を征服(1287年)
・遠征失敗地域
日本(鎌倉幕府)=元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)
陳朝大越国(ヴェトナム:13世紀中頃、3回)
マジャパヒト朝(ジャワ:1292年)

(2)中国支配
モンゴル人・色目人(西域出身の異民族:ウイグル人/イラン人など)
=支配層(3%)
漢民族は、漢人(旧金人:14%)・ 南人(旧南宋人:83%)に区別
=冷遇される
中国文化、儒学を軽視
→科挙の中断(復活4代仁宗:1313年)
→公用語はモンゴル語、パスパ(ラマ僧帝師)文字を使用
<官制>

・中央
中書省(最高機関):行政
枢密院:軍事
御史台:監察
・地方一行(中書)省(統治機関)
→後の12 省の起源
―路・府・州・権
ダルガチ(監督官:モンゴル人)を派遣して、地方を支配
ジャムチ(駅伝制:牌符の使用)の発達
→東西文明の交流
=タタールの平和]と呼ばれる

※マルコ=ポーロの来朝(都:大都)
—フビライの治世
『東方見聞録(世界の記述)]』を帰国後著す
海上貿易(インド洋航路)を奨励
—ムスリム商人(イスラーム教徒:斡脱あつだつ)の活躍
→泉州(ザイトン).抗州(キンザイ)・広州・明州に
市舶司(貿易管理機関)を設置

(3) 滅亡
ラマ教(チベット仏教)を保護
→寺院の建立(財政難)
→交紗(紙幣)の乱発
→インフレ、経済の混乱
帝位継承争い(クリルタイ)、黄河の氾濫(土木工事の負担)など
紅巾の乱(白蓮教徒の乱)の勃発
—農民反乱(1351~66年)
※白蓮教一弥勒仏の信仰
指導者[韓山童と韓林児父子(暗殺される)
→朱元蹄]の台頭
→大都攻略(順帝:1368)
→北元(大元ウルス)へ撤退

<元の税制>

〇 華北(旧金朝支配下:直接支配)
—税糧(ぜいりょう)と科差(かさ)を施行
・税糧=地税・丁税(人頭税)のうち高額の方を課税する制度
・科差=絹糸と銀を戸ごとに課税する制度
・絹糸で納税することを「糸料(しりょう)」
・銀で納税することを「包銀(ほうぎん)」

〇 江南(宋代以来の地主層の勢力温存:地主佃戸制)
—両税法を施行(夏・秋徴税)
•田賦(土地にかかる税)に近いものとなり、穀物で納入
→地方の財政へ
・諸税—塩課(塩の専売)、商税(消費税)
→中央財政へ

(2024/01/22)

第三部:近世・近代

第7章 近代ヨーロッパの誕生

[ 1 ] 大航海時代

(1) 新航路開拓の背景

①スペイン・ポルトガルによる「レコンキスタ」の完了
―イベリア半島からイスラーム勢力を駆(1492年)→膨張運動として
② マルコ=ポーロの『東方見聞録(世界の記述)』により、東方への関心
③ オスマン=トルコにより、ビザンツ帝国の滅亡
—コンスタンティノープルの陥落(1453年)
オスマン=トルコが東方貿易(レヴァント貿易)を制圧
→イタリア商人は、新たな活動の場を西方に求める(イベリア半島・北アフリカの北部沿岸など)
香辛料(特に胡椒)の直接獲得の利益を求める
④ 科学・航海術の発達
トスカネリが地球球体説を唱える
マルティン=ベハイムが地球儀を作製(1492年)
カラベル帆船、緯度航法、羅針盤(宋代に実用化
→イスラムを経て欧へ伝播)等の利用
→大洋に乗り出すことが可能
⑤ 中央集権国家の成立(ポルトガル・スペイン)
―レコンキスタが強力な統一国家の形成に寄与
→王立事業として、航海事業に乗り出す
⑥ プレステ=ジョアン(プレスター=ジョン)伝説
―アフリカ内地にキリスト教王国の存在(エチオピア?)
→対イスラーム挟撃計画を構想(宗教的要素)

(2) インド航路の開拓
―東回り(ポルトガルによる航海事業:1498年)
① エンリケ航海王子(1394〜1460年)の奨励
―航海学校の設立
アゾレス諸島到達(1431年)
→ヴェルデ岬(アフリカ最西端)到達(1445年)
大西洋・アフリカ西岸探検
―象牙・奴隷・貴金属を取引
②バルトロメウ=ディアス(ポルトガル人)
―喜望峰到達(1488年)
③ ヴァスコダ=ガマ(ポルトガル人)
―「キリスト教徒と香料を求めて」
アフリカのマリンディ経由
→インドのカリカットに到達
=インド航路の開拓(1498年)
④ 東方貿易の独占(首都:リスボンの繁栄)
―イスラーム貿易圏への食い込み
ディウ沖の海戦(1509年)
―ポルトガル艦隊(アルメイダ:初代インド総督)、エジプト艦隊(マムルーク朝)を破る
=インド洋での海軍力の優位
インドのゴア占領(1510年)
→マラッカ(1511年)、セイロン島(1518年)占領(2代インド総督アルブケルケの活躍)
モルッカ(香辛料)諸島制圧(1536年)
→アジアの香辛料貿易を独占
中国(明)の広州(1517年)、種子島(1543年:鉄砲伝来)、平戸(1550年)に来航
=南蛮貿易
中国のマカオの居住権を獲得(1557年:1887年領有)

(3) 新大陸への到達(1492年)と世界周航(西周)
―スペインにより
① コロンブス(イタリア人:ジェノヴァ出身)
トスカネリの地球球体説とマルティン=ベハイムの地球儀の影響
スペイン女王イサベルの援助
→サンタ=マリア号によりパロス港を船出
→サンサルバドル島(現:西インド諸島、バハマ群島)に到達
=アメリカ大陸に到達(1492年)
先住民をインディオと呼ぶ
—インドと誤認
※ 教皇子午線(教皇アレクサンドル6世により:1493年)
※ トルデシリヤス条約(スペイン・ポルトガル間:1494年)
② カボット父子(イタリア人:父ジョヴァンニ;子セバスティアン)
英王ヘンリ7世の援助で北米探検(ニューファンドランド島:1497年)
③アメリゴ=ヴェスプッチ(イタリア人)
―新大陸(ヴェネズエラ)探検
→インドではなく新大陸と報告(1500年)
=アメリカの名称
④ カブラル(ポルトガル人)
―ブラジルに漂着
→ブラジルはポルトガル領になる
⑤ バルボア(スペイン人)
―パナマ地峡を横断
→太平洋を発見(1513年)
⑥ マゼラン(マガリャンイシュ:ポルトガル人)の世界周航(1519年〜1522年)
スペイン王カルロス1世の命、スペイン出発(1519年8月)
→マゼラン海峡を「発見」命名(1520年10月)
→太平洋横断
→フィリピン諸島に到達(1521年)、マゼラン戦死
→部下がスペインに帰還(1522年10月)
=大地の球形を証明
⑦ ドレイク(イギリス人)の世界周航(1577年〜80年)
―エリザベス女王の援助

(4) アメリカの征服
(征服者=コンキスタドール)
① 古代アメリカ(アメリカ・インディオ)
特色:
とうもろこし・じゃがいも栽培中心の農耕文明
神殿・ピラミッド・太陽信仰(神権政治)
青銅器文明(鉄・車・馬などを使用せず)
=古代オリエント・中国古代文明と共通する性格
・メソ=アメリカ文明(メキシコ中心)
オルメカ文明(前1000頃)
—メキシコ湾岸、ジャガー神信仰
テオティワカン文明(6世紀頃)
—メキシコ中央高原、太陽のピラミッド
マヤ文明(6〜16C)
—ユカタン半島中心
神殿中心、神権政治(神官)
都:チチェンイッツア→マヤパン
絵文字・太陽暦・二十進法(ゼロの概念)
・アステカ文明(14〜16C)
—メキシコ高原
都:テノチティトラン
(現:メキシコシティ:テスココ湖)
チナンパ農法(浮遊菜園)
—共同耕地
「花の戦争」
—太陽信仰による人身御供の奴隷狩り
→コルテス(スペイン人)による征服(1521年:モクテスマ王)
・アンデス文明(ペルー中心)(チャビン文化:前1000年頃)
インカ帝国(13〜16世紀:ケチュア族)
都:クスコ
太陽神信仰、キープ(結縄)による数の記録(十進法)(キープカマヨにより)
チャスキ(飛脚)の制度
—道路網の発展
→ピサロ(スペイン人)による征服(1533年:アタワルパ王)
② スペインによる新大陸統治(インディアス)
本国—インディアス評議会
植民地—アウディエンシア(統治機関)
・エンコミエンダ制(16世紀頃:土地制度)
国王は、植民者にインディオの「文明化(キリスト教化)」義務づけを代償に征服地 とインディオの統治を「委託」(事実上の奴隷制)
→インディオの減少
→ラス=カサス(インディオの擁護者)の批判 
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年)
※ アリストテレス論争
「野蛮人」は他人から支配され統治される必要がある(自然奴隷)
(アリストテレス学者セプルーベダ対ラス・カサス)
・レパルティミエント制(16世紀後半〜17世紀前半)
—ポトシ銀山などの鉱山開発において実施(配給制)
行政当局が、現地住民を強制移住労働(ミタ)によって割り当てる。
・アシェンダ制(17〜18世紀:大農園制)
砂糖きび栽培などで、債務奴隷を主な労働力とするプランテーション。
→アフリカから黒人奴隷を輸入(1518年〜)
・スペインのフィリピン進出
メキシコ(アカプルコ)
→フィリピン(マニラ:総督レガスピ領有)
→中国(明)=太平洋航路就航(1565年〜19世紀初頭:年1回の定期往復航路)
※「白い伝説」
ヨーロッパ人は、原住民をキリスト教化、すなわち文明化した。
※「黒い伝説」
スペイン人は、インディオを略奪・虐殺した。(英仏の批判)

(5) 大航海の影響
ヨーロッパ世界の拡大と「一体化」
ヨーロッパ勢力のアジア・アフリカへの進出→ヨーロッパ有意の確立

① 経済革命
商業革命(16世紀)
貿易の中心が地中海や北海・バルト海 から大西洋へ移動
北イタリア海港都市やハンザ同盟(リューベックなど)の衰退
大西洋岸の諸都市(リスボンなど)が繁栄
価格革命(16世紀)
新大陸の豊富なの流入
→貨幣価値の下洛やインフレ(物価騰貴)が起こる
→固定地代に頼る封建貴族の没落
→封建社会の解体を促進
 
・中世世界観の崩壊
スコラ哲学(中世のキリスト神学)・宇宙観の崩壊
・生活の変化
新奇物資の流入(タバコじゃがいも・トマト・トウモロコシ・唐辛子など)
・近代奴隷制度の成立(三角貿易により:16世紀〜19世紀)

(2019. 9. 6)     

[ 2 ] ルネサンス

※ルネサンス(14~16世紀:再生」の意味=文化運動)

(1)特色

人文主義(ヒューマニズム)
—ルネサンスの根本方針
→ギリシア・ローマ古典文化の再発見(人間性の発見)
カトリック教会の権威の失墜により
現世肯定・人間中心主義・個性重視(万能の天オの登場)
宗教は否定せず(人間性とキリスト教の調和をめざす)

(2)イタリア=ルネサンス

(a)起因
都市の勃興(ヴェネチア・ジェノバ・フィレンツェなど)
—東方貿易を独占
→市民階級の台頭
自治都市(都市共和国:コムーネ)を形成
〇 古典の復興
・古代ローマの文化の伝統の保存
・東方貿易・十字軍により
→イスラーム世界・ビザンツ帝国から古典古代の学問が流入
・ビザンツ帝国の滅亡([111453]年)
→古典学者のイタリア亡命・移住
〇 メディチ家(フィレンツェ)などの権勢者の学芸保護(パトロン)

(b)展開
① フィレンツ
(14世紀〜15世紀:金融・毛織物業・東方貿易などで繁栄)
メディチ家(コシモ:15世紀前半;ロレンツォ:15世紀後半)の保護
=ルネサンスの中心地
・文学
ダンテ『神曲』(トスカナ方言)
—イタリア国民文学の祖
ペトラルカ『叙情詩(カンツオニエーレ』、『新生』
ボッカチオ『デカメロン』
―近代(短編)小説の原型(キリスト教会批判)
・思想
 マキャベリ『君主論』
 —近代政治学の先駆(16世紀)
 “君主はライオンの獰猛さと狐のずる賢さを持たねばならない”
・美術
 ジオット(画家:14世紀)「聖フランシスコの生涯」
 ドナテルロ(彫刻家:14〜15世紀)「ダヴィデ」
 ボッティチェリ(画家:15世紀)
「ヴィーナスの誕生、「春」
―女性の美と異教の神々を描く
ブルネレスキ(建築家:15世紀)
—聖マリア大聖堂の円蓋(ドーム)
② ローマ(16世紀)—ローマ教皇の保護
 ・絵画
 ミケランジェロ
「最後の審判」―システィナ礼拝堂(祭壇画)
「天地創造」―同上(天井画)
 ・建築サンピエトロ大聖堂の改築
—ブラマンテ(改築設計)→ミケランジェロ(変更)
③ 三大巨匠
 ・レオナルド=ダ=ヴィンチ「最後の晩餐」「モナリザ」
 ・ミケランジェロ「ダヴィデ(彫刻)」
 ・ラフェロー聖母子画(フレスコ画)

(c)衰退
〇 イタリア戦争(広義15C末~16C半:狭義1521~44年)による荒廃
神聖ローマ皇帝カール5世対フランス国王フランソワ1世
→イタリア争蒋戦(講和条約:[16カトー=カンブレジ]条約:1559)
※仏(ヴァロワ家)
—伊の権利を断念; ブルゴーニュ、ロレーヌ地方を譲り受ける
※独(ハプスブルク家)
—ミラノ、ナポリ、シチリア、サルディニャ、トスカナ地方の西南部を獲得
〇 新航路開拓(ホ・ルトがル・スペイン)による北イタリア諸都市の経済的衰退


(3)ルネサンスの波及

① ネーデルラント(15〜16世紀)
・思想
 エラスムス(人文主義者)『愚神礼讃』
 —教会の腐敗を批判
・絵画(フランドル画派)
 ファン=アイク兄弟(宗教画)
 ―油絵を開始
 ブルーゲル(農民画家)
② ドイツ(16世紀)
・思想
 ロイヒリン
―ヘブライ語『旧約聖書』・ギリシア語『新約聖書』の研究)
メランヒトン(古典研究)
→ルターの宗教改革を支持
・絵画
 デュ—ラ「四使徒」
 ホルバイン「エラスムス像」
③ フランス(16世紀)
・文学
 ラブレー『ガルガンチュア物語』(仏語;風刺物語)
・思想
 モンテーニュ『エッセー(随想録』
 —近代人最初の書(自己の内面生活を記述)
④ スペイン(16〜17世紀)
・文学
 セルバンテス『ドン=キホーテ』
 ―騎士階級の没落を風刺
・絵画
 エル=グレコ(ギリシア人)
 ―宗教画「聖母昇天」
⑤ イギリス(14〜16世紀)
・文学
 チョーサ『カンタベリ物語』(14世紀)
 トーマス=モア『ユートピア』(1516年)
 —第1次囲い込み運動を批判 “羊が人間を食う”
 シェークスピア(四大悲劇)
 『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』
 エドモンド=スペンサー(叙情詩人)『神仙女王』

(4)技術と科学精神の発達
 ① 三大発明(改良)
・火薬(火砲)(中国の元代に実用化)
 →戦術の変化→騎士階級の没落を促進
 ・羅針盤(宋代に実用化)
→新航路の開拓に貢献
・活版印刷術(15世紀:グーテンベルクの発明)
→新思想の普及に貢献
② 自然科学—天文学の発達
コペルニクス(16世紀:ポーランド)
―地動説を主張『天球回転論』(1534年)
ジョルダーノ=ブルーノ(17世紀:イタリア)
―地動説を主張→火刑に
ガリレオ=ガリレイ(17世紀:イタリア)
—望遠鏡を作製、地動説、振り子の等時性を発見
ケプラー(17世紀:ドイツ)
—惑星運行の法則「ケプラーの三法則」
 楕円軌道説→ニュートンの万有引力の法則検証
 
意義:中世的世界観(天動説)の打破

(2024/01/25)

[ 3 ] 宗教改革

(1)ドイツの宗教改革

〇 ルターの改革
ルター(ヴィッテンベルク大学)
『九十五カ条の論題』(ラテン語)を発表(1517年)—[贖宥状(免罪符)の販売を批判(独は“ローマの牝牛”と呼ばれる)
→←
教皇レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金のため贖宥状(免罪符)を販売
ルター対エック(教皇側の神学者)とのライプチッヒ論争(1519年)
→ルター聖書主義を主張
→教皇の権威を否定
『キリスト者の自由]を出版(1520年)
—「人は信仰によってのみ義とされる」
(信仰義認説:魂の救済は信仰以外にあり得ない。)
→教皇により破門される(1521年)
エラスムスとの親交(「エラスムスの産んだ卵をルターが孵(かえ)した」)
神聖ローマ皇帝 カール5世、ヴォルムスの帝国議会に、ルターを召喚(1521年)
→ルター、自説の取り消しを拒否
→法律の保護外に置かれる
→ザクセン選帝侯フリードリッヒ(反皇帝派)のルター保護
→ルター、新約聖書のドイツ語訳を完成(ヴァルトブルク城にて)

〇 ドイツ宗教内乱
※活版印刷術→ルターの思想の普及
・騎士戦争
—ジッキンゲン・フッテンらにより(1522〜23年)
→諸侯・皇帝らにより鎮圧される
・ドイツ農民戦争ーミュンツァー(再洗礼派)が指導(南独中心)
—「十二か条の要求」
(農奴制の廃止、教会税の軽減など)
←ルターの非難(神の秩序)
→諸侯(領主)らにより鎮圧される
第1回[シュパイアー帝国議会
—皇帝、ルター派の布教承認

★ 皇帝カール5世の三つの敵
・仏王フランソワ1世]
・オスマン帝国スレイマン1世
・ルター派諸侯(国内)

オスマン=トルコのウィーン包囲(1529 年)、失敗
第2回シュパイアー帝国議会
—カール5世、ルター派を再禁止(1529年 )
→ルター派諸侯の抗議=プロテスタントと呼ばれる
→ルター派諸侯・都市(シュマルカルデン同盟)結成(1530 年)
→シュマルカルデン戦争(1546〜47年)
—カール5世とルター派諸侯の争い
→アウグスブルクの宗教和議(1555年)
—カトリック(旧教)か、ルター派(新教)かの選択権を、諸侯と都市に認める(領邦教会制)

(2)スイスの宗教改革
(13州自治:ハプスブルク家から独立:14世紀)
1520年代:ツヴィングリ(チューリッヒにて)、贖宥状批判、戦死
1530年代:カルヴァン(ジュネーブにて)宗教改革を実施
・神政政治(政教一致)を行う
・長老制度を確立
—司教制度を廃止して、牧師と信徒の代表で教会を運営(民主的)
『キリスト教綱要]』を出版(1536年)
「予定説」(教義)=救済は神により予定されている
—勤労による蓄財を肯定
→新興の市民階級(商工業者など)の支持を得る
※マックス=ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904〜05年)
—プロテスタンティズム(禁欲・職業召命説)が、資本主義社会の形成・発展に貢献
★カルヴァン派の呼称
・ユグノー(フランス)
・ゴイセン(オランダ)
・ピューリタン(イギリス)
・プレスビテリアン(スコットランド)

<宗教改革の意義>

〇 宗教改革以前:
・現世の秩序が維持されるためには、それが正当性をもっていること、その正当性を意味づける価値体系の存在が必要。
・封建社会の秩序、王や貴族の権力は、教皇や教会によって権威づけられる必要があった。
・教皇や教会は神の恩籠(神のめぐみ)を人々にとりつぐ唯一の存在、組織であるということでその権威を維持。
・ カトリックの教義では、教会の聖職者の行う儀式を通じてのみ神の恩寵が受けられるとして、神の真理は教会が独占。(それ以外は異端)

〇 ルター・カルヴァンの教え:
・ルターやカルヴァンは、聖書から直接神の言葉を学び、「信仰によってのみ」「神の恩寵がえられる」とし、神と人との間にカトリック教会が介在することを否定。
・カトリック教会の権威を否定し、信仰の純粋化・個人化へ。
・しかし、個人個人が聖書を自由に解釈し、信仰の形式を自由に選ぶという意味ではない。
・聖書を正しく解釈する指導者やプロテスタントの神学が必要。
・ルターやカルヴァンがカトリックのみならず自派と異なるプロテスタントの各派と激しく対立する理由はここにある。

〇 宗教改革の影響・結果:
・宗教改革はカトリック教会を否定することによって、教皇を頂点とする全ヨーロッパ的なキリスト教会の秩序、教会が支えていた古い社会秩序を根底から揺るがせた。
・神の絶対性の前の人間の徹底した無力を強調することで、かえって世俗世界での自由を得ることができた。
・教会の権威から独立した諸国家の支配者は、国内・領内の教会を支配下に置いて絶対的権力を握った。
・知識人や市民は新しい秩序を求めた。
・農民は領主に反抗する根拠を聖書の教えから引き出した。
・こうして、宗教内乱や宗教戦争は政治的・社会的抗争をともなって、16~17世紀のヨーロッパ各地に広がった。

(3)対抗宗教改革(反宗教改革)

〇 イエズス会の結成(1534年;1540年教皇により承認)
—イグナティウス=ロヨラ(スペイン人)、パリで結成
・教皇への絶対服従
・清貧・貞潔(モットー)
・軍隊的規律を順守
→海外布教(アジア・ラテン=アメリカなど)に活躍
フランシスコ=ザビエル]日本に来航:1549)
—耶蘇教と呼ばれる
マテオ=リッチ(中国明末に来航:1583年:中国名利馬竇)の活躍

〇 トレント公会議(1545〜63年)
—カール5世の要請(教皇パウルス3世)
・カトリックだけの会議(ルター派出席せず)
・宗教裁判強化(異端審問;魔女裁判:スペイン中心)
・禁書目録を制定
・司教の権限強化・教会改革(カトリック内部の反省)
・教皇至上主義を確立
→近代カトリックの基礎を確立

(4) 宗教戦争

〇 フランス(ユグノー戦争:1562〜98年)
−新旧両派の貴族間の争い
・新教派  
(ユグノー:指導者 ナヴァール王アン])
・王権 
(摂政[カトリーヌ=ド=メディシス:
国王シャルル9世の母后)
・旧教派   
(カトリック:指導者ギーズ公アンリ) 
・サン=バルテルミの虐殺(1572年]
—カトリーヌとギーズ公により、新教徒(ユグノー)弾圧
・国王アンリ3世即位1574年(3アンリの争い)
・アンリ3世暗殺(1589年)
→ヴァロワ朝断絶
→ナヴァール王アンリ、アンリ4世として即位(
→ブルボン朝の開始 
※「国家なき国王」
—パリ市民はじめ旧教徒は国王を認めず、教皇により破門される→各地を転戦
・アンリ4世、カトリックに改宗(1593年)
・アンリ4世、ナントの勅令(1598年)を発布
—個人の信仰の自由を認める
→宗教戦争に終止符

〇 ドイツ(三十年戦争:1618〜48年)
—新教同盟(ウニオン:1608年結成)
対旧教同盟(リガ:1609結成) 
原因:
新ベーメン(ボヘミア)王(後皇帝)フェルディナント2世(ハプスブルク家:旧教徒)の新教徒弾圧
(a)ベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱 
※プラハ王宮窓外放出事件
・ベーメン・ファルツ戦争(1618〜23年)
→鎮圧される
(b)デンマーク王クリスチャン4世(新教徒)の介入(新教側)
(デンマーク戦争1625〜29年)
←→皇帝側(旧教)傭兵隊長(ヴァレンシュタイン)の活躍、勝利
(c)スウェーデン王グスタフ=アドルフ(新教徒)の侵入(新教側)
(スウェーデン戦争:1630〜35年)
→←皇帝側ヴァレンシュタイン
→リュッツェンの戦いグスタフ戦死)
(d)フランス(宰相[リシュリュー;国王ルイ13世:旧教)の介入
→新教側を援助(
(フランス・スウェーデン戦争:1635〜48年)
—ブルボン家(仏王)対ハプスブルク家(独皇帝)の対立
(宗教戦争から政治戦争へ)
→ドイツの荒廃(人口37%減少)

★ウェストファリア条約((講和条約:1648年)
—欧最初の国際条約
ミュンスター(仏と独)とオスナブリュック(スウェーデンと独)
・独各領邦の主権と外交権を承認
→神聖ローマ帝国の有名無実化
・オランダとスイスの独立承認
・カルヴァン派の公認
(独、カトリック・ルター派と同等の権利)
・フランス
—アルザスとロレーヌ地方(ヴェルダン・メッス・トゥールの3司教領)を獲得
・スウェーデン
—独北部(西ポンメルン地方を獲得)
→バルト海の制海権を握る

(2024/01/25)

[ 4 ] 絶対王政諸国の盛衰

※絶対王政の基本形態(16〜18世紀)
   
・国王(王権神授説)
・官僚(徴税・裁判機構)
―従属・官僚
←封建諸侯(衰退)
・常備軍(国内統一・植民地獲得)
―独占権・財政支援
←上層市民(台頭)
国王は、封建諸侯と上層市民のバランスを取る  

<主権国家とは何か>

〇主権国家の形成(15~18世紀のヨーロッパ)
・封建的領主層の没落
・超国家的権威としての教皇権の衰退
・イタリア戦争などに見られる諸国家内の覇権争い
→各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力としての「主権国家」が形成される

〇主権国家とは
・一定の領域に対して排他的に権力を行使し、他の統治単位(国家)にも同じ権利を承認する国家が「主権国家」という概念。
・権力はまず王に集中し、その絶対的権力は王権神授説で正当化される。こうした体制を「絶対王政(絶対主義)」(absolutism)と呼ぶ。
→フランス・スペイン・ポルトガル・イギリスなどで始まる。
・国王は国内で、立法権、課税権、官吏任命権、戦争・平和の権限を独占的に行使。
・主権国家間に形成される国家秩序が、主権国家体制
・国際的なルールは、主権国家の自律性を認めると同時に、主権国家の行動に一定の制約をも加える。

〇主権とは
・フランスのジャン=ボダン(1530~96)が『国家論』の中で主権という概念を定式化
・「国家における絶対的恒久的権力」
→国王が主権を持つとされた。

〇国民国家とは
・一つの民族が一つの国家をなすべきだという考え方で、近代の国家のありかたの典型とされる。
・「フランス」という国は、身分や階級や地域の違いを超えて「フランス人」が構成している。
・そうした意識が成立するためには、言葉や宗教や生活習慣を共通にする「国民」が成立していなければならない。

1. スペインとオランダ

(1)スペインハプスブルク朝
カルロス1世(位:1516〜56)
—神聖ローマ皇帝に就任(1519〜56)
=カール5世
フェリペ2世(位:1556〜98)
レパントの海戦 (1571)
—オスマン=トルコを破る
ポルトガル併合(1580〜1640)
ネーデルラント、ミラノ、シチリア、ナポリ、新大陸を領有
→“太陽の沈まぬ国”と呼ばれる
カトリックを強制→オランダ独立戦争を引き起こ
無敵艦隊(アルマダ)のイギリス遠征(1588)に敗北
直接の原因
—スコットランド前女王メアリ・ステュアートの処刑
→以後、急速に衰える

(2)オランダの独立戦争(1568〜1648)
※ネーデルラント地方(17州:スペイン領)
・原因
 商工業(毛織物)の発達→市民層の発達
 カルヴァン派(ゴイセン)の普及
 ←→スペイン(フェリペ2世)のカトリック強制
(異端審問による新教徒の弾圧、自治権と信仰の自由への抑圧)
・経過
1568 オラニエ公ウィレムを首領に反乱
←→スペイン総督アルバ公の恐怖政治
※「エドモンド伯の処刑」(ゲーテ;ベートーヴェン)
「乞食党(ゴイセン)」のゲリラ戦
1576 「ガンの和平」
—スペイン軍の撤退を約束させることに成功
1579 南部10州(アラス同盟結成)
ベルギー地域:旧教徒多数の脱退→スペインへ
  北部7州(ホラント州が中心):
ユトレヒト同盟を結成、徹底抗戦
1581 ネーデルラント連邦共和国]の独立を宣言
(英の支持)
オラニエ公ウィレムが初代の総督
1609 休戦条約(対スペイン:事実上の独立)
 1648 独立の国際的承認(ウェストファリア条約)※アジアへの進出
 1602 東インド会社を設立—アジア貿易を独占
→オランダ領東インド(現インドネシア)を形成(植民地)
 17世紀前半に世界商業の制覇
→首都アムステルダムの繁栄
←アントウェルペン(アントワープ)から


2.イギリス(テューダー朝:1485〜1603)
※バラ戦争により

(1)ヘンリ7世(初代:1485〜1509)
星室庁(国王直属の特別裁判所)
・枢密院(諮問機関)の設置
→王権の強化

(2)ヘンリ8世 (1509〜47)
—宗教改革を引き起こす
首長法(1534:離婚問題から)→教会は王権に屈服
国王は、教会・修道院領を没収
(王室財産基盤の強化)
→イギリス国教会(アングリカン・チャーチ)の成立
 絶対王政を確立—ただし官僚制・常備軍は未整

(3) エドワード6世(1547〜53:「少年王」)
摂政サマセット公(プロテスタント))の指導
一般祈祷書(新教:英語)を制定(1549)
—礼拝と教義を確立(カルヴァン主義の導入)

(4)メアリ1世(1553〜58)
フェリペ2世(皇太子時代)と結婚
→旧教に復活、新教徒弾圧(異端取締法により)
→血のメアリと呼ばれる

(5) エリザベス1世(1558〜1603)(神仙女王)
  統一法の発布(1559)
→イギリス国教会の確立
一般祈祷書の使用を義務づける
「国教忌避者処罰法」により旧教を弾圧
ジェントリ(郷紳)を治安判事に任命
—地方の行政・司法を任せる
無敵艦隊(アルマダ)を破る
←私掠船(私拿捕船)により
(ホーキンズ・ドレイク船長)の活躍
―メアリ・ステュアートの処刑がきっかけ
オランダ独立戦争の支援
毛織物工業の発展
—第一次囲い込み運動が進展(15 世紀末)
=牧羊地が目的
(トマス=モア『ユートピア』“羊が人間を食う”
—囲い込み批判
→離婚問題批判、ヘンリ8世により処刑される)

東インド会社(1600)を設立
—アジア貿易の独占、対オランダ
救貧法(1601 )の制定
—貧民の救済と取り締まりを定めた法
ポンド高→英毛織物割高(輸出難)、囲い込みの影響
グレシャム(蔵相)を登用
−「悪貨は良貨を駆逐する」(「グレシャムの法則」)
ウォータ・ローリーの北米ヴァージニア植民計画(1584〜85)の失敗

3.イギリス市民革命と立憲政治の発達

(1)ピューリタン革命

① ステュアート朝(1603 〜1714)
 —エリザベス1世の死(テューダー朝の断絶)
・ジェームズ1世
(スコットランド王ジェームズ6世:同君連合)(1603〜25年)
王権神授説を信奉
→イギリス国教を強制
→ピューリタン弾圧
 →ピルグリム=ファーザーズ]の新大陸移住
(メイフラワー号)、プリマス上陸(1620年)
 ヴァージニア植民地(北米最初の植民地)の建設に成功
 (ジェームズタウンの建設:1607年)

② ピューリタン革命
★ チャールズ1世(1625〜49年)の治世
・王権神授説を信奉—イギリス議会を無視
・イギリス国教会の信仰を強制
・大商人に独占権を与える
 議会、『権利の請願』(Petition of Right:1628年)を国王に提出
・議会の同意のない課税の禁止
・不法な逮捕・投獄の禁止
→王は、議会を解散
ロード=ストラッフォード体制
—議会抜きの政治を断行

 スコットランドの反乱(1639年:長老派)
 →国王は議会を招集(短期→長期議会)

★ ピューリタン革命(1642〜49年)の勃発
〇 議会派
   ・ピューリタン中心
   ・ジェントリ・ヨーマン(独立自営農民)
   ・拠点:ロンドン
〇 王党派
   ・国教徒中心
   ・聖職者・貴族・大商人
   ・拠点:ヨーク
 クロムウェル(議会派)の鉄騎隊の活躍
→新型軍に編制
ネーズビーの戦い(1645年)
→議会派の勝利

議会派の分裂
・長老派(プレスビテリアン)—議会の多数派
 →立憲君主制を主張
・独立派(インディペンデンツ)—議会少数派
 クロムウェルが指導
 軍の幹部が中心
 制限王政(議会主権)を主張
・水平派(レヴェラーズ)―議会外
 リルバーンが指導
 軍の兵士(小農民・小市民)が中心
 共和政を主張

クロムウェル、長老派を追放(1648年)
=残余議会
チャールズ1世を処刑(1649年)
→共和政(コモンウェルス:〜60年)

③ クロムウェルの政治
 水平派(財産権・参政権の平等を主張)を弾圧
 →反乱を鎮圧(1649年)
 アイルランド(カトリック)を征服(1649〜54年)
 →後のアイルランド問題を生み出す
航海法を発布(1651年)
=英の商品輸出入を英船と当事国の船に限定
—オランダの中継貿易排除が目的
→第1次英蘭戦争勃発(1652〜54年)
長期議会を解散→護国卿に就任
―軍事独裁体制を実施(1653〜58年)

(2)名誉革命
 
① 王政復古
★ チャールズ2世(1660 〜85年)
王党派・長老派の支持
※ ブレダ宣言(政治犯の恩赦・信仰の自由)と
ドーバーの密約(ルイ14世:カトリックの復興を約束)
 ・審査法(1673年)
—公職者を国教徒に限る
・人身保護法(1679年)
 —不法な逮捕・裁判を禁止

② 名誉革命
★ ジェームズ2世(1685〜88年:カトリック)
専制政治を実施
 →議会は、オランダ総督オラニエ公ウィレム(メアリの夫)を招く(1688年)
 →名誉革命(無血)の成功

 メアリ2世・ウィリアム3世即位(共同統治:1689年)
 →『権利の宣言』(議会の可決)を承認
 →『権利の章典』(成文化)として発布
 ・マグナ=カルタ(大憲章:1215年)以来の英人の自由と権利を再確認
 ・議会主権(王権に対する議会の優越)を確立
 →立憲君主政の基礎を築く

(2)立憲政治の確立

① 二大政党の成立(チャールズ2世時代)
—ジェームズ2世の継承問題が契機
・トーリー党(即位賛成派)
—貴族・聖職者・地主を代表
→保守党へ(19世紀)
・ ウ(ホ)イッグ党(即位反対派)
中産階級を代表
→自由党へ(19世紀)
政党政治の成立(17世紀末以降)
—多数党が内閣を組織

★ アン女王時代(メアリの妹:1702〜14年)
・スコットランドを併合
→大ブリテン王国の成立(1707年)
 ・スペイン継承戦争に参加
=アン女王戦争(植民地戦争:1702〜13年)
 →ユトレヒト条約(1713年)
 —フランスよりハドソン湾地方、ニューファン ドランドを獲得

② ハノーヴァー朝(1714〜1917年)
←スチュアート朝の断絶により
  ハノーヴァ選帝侯(独)
→ジョージ1世として即位(1714〜27年)
  ウオルポール内閣(ウィッグ党党首)
(1721〜42年)
—国王は国政を首相に一任

ジョージ1世・2世(1727〜60年)の代
  責任(議院)内閣制が成立
  —ウオルポール、下院の信任を失う
→辞職(1742年)
=内閣は王にではなく、議会に責任を負う
“国王は君臨すれど統治せず”

※ 制限選挙により
→ジェントリ(郷紳)が議会の主権を握る

※ アイルランド併合(1801年:ジョージ3世)
大ブリテン=アイルランド連合王国の成立

※ ウィンザー朝と改称(第一次大戦中:1917年〜)

※ 英仏植民地戦争(北米)
 ・ウィリアム戦争(1689〜97年)
  =ファルツ戦争と連動
 ・アン女王戦争
  =スペイン継承戦争と連動
 ・ジョージ王戦争(1744〜48年)
  =オーストリア継承戦争と連動
 ・フレンチ=インディアン戦争(1755〜63年)
  =七年戦争と連動
  →パリ条約(1763年)
  —英はミシシッピ以東のルイジアナ・カナダ(仏より)、
   フロリダ(スペインより)を獲得
  =プラッシーの戦い(インド:1757年)

4. フランスの絶対王政(ブルボン朝:1589 〜172)
←ユグノー戦争によりヴァロワ朝断絶

(1) アンリ4世(位1589〜1610)
—ナントの勅令発布(1598)
=個人の信仰の自由を認める
1604年 東インド会社の設立

(2) ルイ13世(位1610〜43)
—宰相リシュリューの補佐(恐るべき枢機卿)
三部会の停止(1615)→絶対主義の確立
三十年戦争]に介入
→ハプスブルク家に対抗して、新教側に付く

(3) ルイ14世]位1643〜1715)“太陽王”

① 宰相マザラン時代
・フロンドの乱(1648〜53)
—パリ高等法院(最高司法機関:王令審査権)を中心にした貴族の反乱
→鎮圧→王権の確立
・ウェストファリア条約(1648)
−アルザス、ロレーヌの一部を獲得

② 親政時代(1661〜1715)
王権神授説を取る(ボシュエ)
—“朕は国家なり”
・ルーヴォワ(陸相)の軍制改革
—常備軍(30万)の確立
・コルベール(蔵相)の重商主義政策
(コルベール主義)
保護貿易を実施(貿易差額主義)
王立マニュファクチャの設立(ゴブラン織りなど)
東インド会社の再建(1664)
・ ヴェルサイユ宮殿(バロック式)の建設
—政府と宮殿
・アカデミー=フランセーズ(1635)創設
—仏語の統一と純化が目的
→フランス語の国際化

★ ルイ14世の侵略戦争(自然国境説)

① 南ネーデルラント継承戦争(1667〜68)
原因:スペイン領ネーデルラントの領有権を主張
対:蘭・英・スウェーデン
結果:アーヘンの和約(1668)
―フランドルの一部の都市を獲得

② オランダ侵略戦争(1672〜78)
原因:南ネーデルラント戦争の報復
対:蘭・独・英(1674から:第3次英蘭戦争1672〜74)・スペイン
結果:ナイメーヘンの和約(1678)
―フランシュコンテとフランドルの一部を獲得

③ ファルツ戦争(1689〜97)
 原因:ファルツ選帝侯領の継承権を主張
 対:蘭・英・独・スペイン・スウェーデン(アウグスブルク同盟)
 結果:ライスワイク条約(1697 )
―ロレーヌ地方を失う、ウィリアム3世を英王として承認

④ スペイン継承戦争(1701〜13)
原因:スペインハプスブルク家断絶
→孫フィリップの継承権を主張、即位
対:英・蘭・墺・普
結果:
〇ユトレヒト条約](1713)
・スペイン=ブルボン朝の成立
(フェリペ5世承認:合併は禁止)
・英
—ジブラルタル・ミノルカ島獲得(スペインより)
―ハドソン湾・ニューファンドランド島、アカディア獲得(仏より)
〇ラシュタット条約](1714)
・墺(独皇帝:カール6世)
—スペイン領ネーデルラント獲得

ナントの勅令の廃止(1685)
→ユグノーの亡命(商工業者)→経済の停滞を招く

5.プロイセンとオーストリア(神聖ローマ帝国)

(1)プロイセン
 東方植民(12〜15世紀)
—エルベ川以東のスラブ人居住地を征服・支配
 ※三大宗教騎士団:
・テンプル騎士団
・ヨハネ騎士団(マルタ騎士団:1535〜)
・ドイツ騎士団(13世紀、帰国)

① ブランデンブルク辺境伯領(1134年)
→ホーエンツォルレン家の支配(1415年〜)
都:ベルリン
ルター派を受容(1539年)

② ドイツ騎士団領(1230年)
東方植民
 →プロイセン公国(1525年)
 ―初代アルブレヒト
 →ポーランドの宗主権
 ルター派を受容

⇒ブランデン=プロイセン成立(1615年)
 ―合併:同君連合                  

※1618:三十年戦争勃発
→1648:ウェストファリア条約

① フリードリッヒ=ヴィルヘルム大選帝侯
(位1640〜88年)
常備軍の創設→絶対王政(主義)へ
三十年戦争に参加(独皇帝側)
→東ポンメルン(ポメラニア)地方を獲得
ポーランドより自立(プロイセン側:1657年)

② フリードリッヒ1世(位:1688〜1713年)
 スペイン継承戦争に参加(独皇帝側)
→プロイセン王国に昇格

③ フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世(
兵隊王:位1713〜40年)
 徴兵制を施行
—徴兵区(カントン)の設置(1733)
 →軍備拡大・軍国主義→強力な絶対王政を確立

ユンカー(地主貴族)の形成
—軍隊の将校・高級官僚を独占
再販農奴制(農奴の賦役労働)による
グーツヘルト(農場領主制)を形成
→西欧への輸出用穀物を生産(16世紀以降)
貴族の子弟は→将校に
農民は→その兵隊に

④ フリードリヒ2世(大王)
(哲人王:位1740〜86年)
・啓蒙専制君主—“君主は国家第一の下僕”
『反マキャヴェリ論』
「上からの改革」
—富国強兵・国民の福祉に務める
・ヴォルテール(啓蒙思想家)と親交
・オーストリア継承戦争
(1740〜48年:対墺マリア=テレジア)に参戦
→シュレジェン獲得(アーヘンの和約:1748年)
・七年戦争](1756〜63)
→シュレジェンを確保
(フベルトゥスブルク条約:1763)
・第1次ポーランド分割
(1722年:ポーランド国王スタニスワフ2世)
—マリア=テレジア(墺)・エカチェリーナ2世と共に領土分割
プロイセンは、西プロイセンを獲得
・文化
サン=スーシー宮殿(ロココ式)を建設
(ポツダムに:1747年)

(2)オーストリア
起源:マジャール人阻止のための辺境伯領
(オストマルク)設置(10世紀後半)
13世紀:ハプスブルク家(独皇帝を世襲)の支配(都:ウィーン)
—複合民族国家を形成
・ベーメン=チェコ人
・ハンガリ=マジャール人の王を兼任
16世紀:カール5世の支配
(スペイン王カルロス1世)

① マリア=テレジア(位1740〜80年)即位
 ←カール6世
—プラグマティッシュ=ザンクティオン(国事勅令)を発布
=女子相続権を認める王位継承法(1724年)
 カール6世死後、マリア=テレジア即位
 →オーストリア継承戦争(1740〜48年)
 バイエルン公が帝位継承権を主張、参戦
=ザクセン・西・仏・普←→墺・英
 →アーヘンの和約
—国事勅令確約(マリア=テレジアの相続承認)
→シュレジェンをプロイセンに奪われる

 外交革命(1756年)
—宿敵フランス・ブルボン朝と同盟を結ぶ
→ 仏皇太子ルイ(後のルイ16世)とマリ=アントワネットの婚姻(1770年)
 七年戦争(1756〜63年)
—墺=仏・露・スウェーデン対普=英
※三枚のペチコート:
・墺マリア=テレジア
・仏ポンパドール夫人
・露エリザヴェータ
→シュレジェンを失う
(フベルトゥスブルク条約:1763年)

② ヨゼフ2世(位1765〜90年:〜80年マリア=テレジアとの共同統治)
・啓蒙専制君主]の一人
—賦役軽減による農民保護、学制や法制の改革、産業の育成などの諸政策を実施。
  宗教寛容令
—信仰の自由を認める(イエズス会の解散)
農奴解放令を発布—不成功に終わる

6.ロシアの台頭

(1) モスクワ大公国
※キエフ公国(9〜13世紀)→モンゴルの支配(13〜15世紀:「タタールのくびき」

① イヴァン1世
—キプチャック=ハン国から大公の地位を獲得(1328年)
※モスクワ大公ドミトリー、キプチャック=ハン国を破る(クロコヴオの戦い:1380年)

②イヴァン3世]即位(位1462〜1526)
 ビザンティン帝国滅亡(1453)後の後継者を自認
 →ギリシア正教徒の保護者を自認
キプチャック=ハン国から独立(1480年)
→諸公国を征服して、ロシアの統一を達成
初めてツアーリ(皇帝)と称す
→モスクワは第三のローマと呼ばれる

② イヴァン4世(雷帝)(位1533〜84年)
  正式にツアーリの称号を使用
→専制政治を行う
  オプリチニナ制(士族:親衛隊)による恐怖政治(テロル)を行う→大貴族に対抗
カザン=ハン国]併合(1552年)
アストラハン=ハン国併合(1556年)
  →東方のシベリアや南方のカスピ海へのルートを開く
コサック(辺境の戦士集団)の首領イェルマークに、シビル=ハン国を征服させる(1581年)
→シベリア進出(ストロノガフ家により)
農奴制の強化(農民の移動の禁止)

(2)ロマノフ朝(1613〜1917年)

①ミハエル=ロマノフが創始(1613年)
←リューリック朝の断絶(1598年)により

②ステンカ=ラージンの反乱
(コサックの首領:1670〜71年)
 —南ロシア(ヴォルガ下流)の農民反乱
(農奴制や租税の廃止を要求)
 →平定される(皇帝アレクセイ3世により)

③ピョートル1世(大帝:位1682〜1725年)
 西欧化・近代化に努める
→自ら西欧視察団派遣(独・蘭・英・墺など)
 税制改革—「ヒゲ税」などを施行
 清の康煕帝とネルチンスク条約を締結
—スタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川を 国境と画定(1689)
→アジアへの領土を拡大
北方戦争](1700〜21年)
—対スウェーデン(国王カール12世)
・ナルヴァの戦い(1701年)
—スウェーデン勝利
ピョートル1世、徴兵制の施行。バルティック艦隊の創設
・ポルタヴァ]の戦い(1709)
—ロシアの勝利
→ニスタット条約(1721)
=東バルト海沿岸地域を獲得
<イングリア(現サンクト=ペテルブルクを中心とした地域)、エストニア、リヴォニア>
→バルト海の制海権を奪う
新都ペテルブルクを建設(1703→遷都1712年)
アゾフ海に進出(1695〜96)
—オスマン=トルコと争う
カムチャッカ進出(1697:領有1707)

④エカチェリーナ2世(ドイツ人:位1762〜96年)−夫ピョートル3世暗殺
啓蒙専制君主の一人
—ヴォルテールと親交を結ぶ
プガチョフの反乱(コサック:1733〜75年)
—農民反乱→鎮圧、反動化し農奴制を強化
対オスマン=トルコ(南下政策)
→クリミア半島を奪う
(1738年:クリム=ハン国を併合)
 →黒海の支配権を獲得
 千島列島(クリル諸島)へ進出
→日本へ外交使節ラクスマンを派遣
(大黒屋光太夫の送還)
ポーランド分割に参加
(3回とも:1772 ;1793 :1795 )

(2024/02/08)

第8章 アジア諸国の繁栄

[ 1 ] 明

1.明の建国と洪武帝の政策
朱元璋(紅巾の乱の武将)の建国(1368年)
=太祖(廟号)洪武帝(年号)
都:金陵(現南京)
江南(長江下流域)を根拠地にして中国統一(唯一)
一世一元の制

★ 洪武帝の政策
① 中書省を廃止→六部を皇帝に直属
—君主独裁制・中央集権国家体制の確立
<中央:皇帝の直轄> 
・六部(行政)
  ・五軍都督府(軍事)
  ・都察院(監察)
<地方:13省>
  ・布政使
  ・都指揮使
・按察使
② 衛所制(軍制)
—民戸と区別した軍戸に軍役を課す
③ 里甲制(村落制度)
1里=110戸:10里長戸(富裕者)と10甲(100戸)
—農民に輪番で徴税・治安の責任を負わせる
④ 魚鱗図冊(土地台帳)・賦役黄冊(戸籍・租税台帳)を作成
⑤ 六諭(6か条の教訓)を定める
→民衆の教化に努める(里老人)
⑥ 朱子学(儒学)を官学化→思想統制
⑦ 大明律(刑法)・大明令(民法・行政法)を制定

2. 成祖永楽帝(位:1402〜24年)
 
2代建文帝の諸王抑圧策
→燕王(後の永楽帝)の反乱、勝利
=靖難の変(1399〜1402年)
“君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる”

★ 永楽帝の政策
<内政>
① 南京より北京遷都(1421年)
② 内閣大学士を設置—皇帝の補佐(宰相)
③ 宦官(かんがん)を重視
—東廠(秘密警察)を設置
<外征>
④ モンゴル親征(5回)
→万里の長城を修築
⑤ ヴェトナム出兵
→陳朝を征服(1406〜07年)
⑥ 宦官の鄭和の南海遠征(1405〜33年)
→アフリカ東岸、メッカまで
―朝貢貿易の進展

3. 明の衰退と滅亡
永楽帝の死後→宦官と北虜南倭に苦しむ

(1) 北虜
① オイラト部(モンゴル系:15世紀)
エセン=ハンの侵入
→英宗正統帝を捕らえる
=土木の変(1449年)
② タタール部(韃靼人:北元:16世紀)
ダヤン=ハンの時強盛
アルタン=ハンの侵入
→一時、北京包囲(庚戌の変:1550年)

(2) 南倭
明は海禁策(民間の対外貿易禁止)
① 前期倭寇(元末明初)
日本人中心、朝鮮・中国沿岸を略奪
→勘合貿易(足利義満)により鎮まる
② 後期倭寇(明代後期)
中国人の密貿易商人が中心
→海禁策中止(1557年)、終息に向かう

★ 万暦帝(神宗)の治世(1572〜1620)
① 宰相張居正(内閣大学士)の財政改革
  一条鞭法の全国普及(16世紀後半)
  —田賦(地税)と丁税(人頭税)の一括銀納
② イエズス会宣教師マテオ=リッチの渡来(1582年)
③ 万暦帝の三大遠征
・豊臣秀吉の朝鮮侵略(李朝)
  —文禄の役(壬辰の倭乱:1592〜96)、
   慶長の役(丁酉の倭乱:1597〜98)
  →宗主国として援軍派遣
・ボハイの乱(モンゴル人:寧夏:1592年)
  →平定
・播州の乱(楊応竜(1597〜1600)
  →鎮圧
④ 東北地方から女真族の侵入
  →財政難が深刻化
⑤ 東林党(顧憲成)と非東林党(宦官官僚:魏忠賢)の派閥争いが激化

李自成の乱(農民反乱:1631〜44年)
→北京攻略
→明の滅亡(毅宗崇禎帝:1644年)

4. 社会・経済

(1) 農業
① 江南地方中心に大土地所有の発展
   (江蘇省・浙江省など)
→抗租運動がおこる
―佃戸の地主(城居地主)に対する反地代闘争
鄧茂七の乱(1448〜49年)
—福建の農民反乱、鎮圧される
② 穀倉地帯の移動
  長江下流域(綿花・桑の栽培:商品作物)→長江中流域へ
“湖広熟すれば天下足る”(湖北・湖南両省)
③ 華僑の激増—人口増加と土地不足により→貧困農民(華南方面)が東南アジアへ移住(南洋華僑)

(2) 商工業
① 貨幣経済の進展
華北の山西商人(金融業)・江南の新安商人(塩商人)の活躍
→会館・公所(商工業者の同郷・同業組合)の設立
② 朝貢貿易
勘合貿易(日明貿易)やヨーロッパ商人との貿易
—広州・泉州・寧波に市舶司を設置
→絹・茶・陶磁器の輸出
→日本銀・メキシコ銀の流入
→貨幣経済の農村浸透
→一条鞭法(税制)の普及(16世紀後半)

※ 明末・清初
民変(反宦官の民衆暴動)・奴変(奴隷の反抗運動)の発生
※ ポルトガル人の来港
1517年 広州へ入港
1557年 マカオ居住権を獲得

(2024/02/11)

[ 2 ] 清

1. 清の成立

(1)ヌルハチ(太祖:位1616〜26年)
  中国東北地方(満州)の女真族を統一
  →後金(アイシン)を建国(1616年)
  八旗の創設(軍制)
  ―旗人に旗地を支給し軍役を課す(満州八旗)
  サルホ(フ)の戦い(対明:1619年)
→遼東に進出(1621年)
都:盛京(現:瀋陽)
満州文字を創始(公用語)―モンゴル文字を基礎

(2)2代ホンタイジ(太宗:位1626年〜43年)
  内モンゴルのチャハル部(タタール系)を征服(1635年)
→国号を清と改称(1636年)
蒙古八旗・漢軍八旗を編制(17世紀頃)
→要地に駐屯
李氏朝鮮を属国化(1637年)

(3)3代順治帝(世祖:位1643〜61年)
 李自成の乱に乗じて北京に入城(1644年)
 ―呉三桂(明の降将:山海関警護)の先導
 →李自成の敗死(1645年)
 北京に遷都
 緑営(漢人の補助軍)を編制―治安維持

※ 明の遺臣鄭成功は台湾(オランダ人を追放)で、清に対抗
—“反清復明”を唱える
→清は遷界令(沿岸住民の強制移住)で対抗

2. 清の最盛期(17世紀末〜18世紀末)

★ 4代康煕帝(聖祖)の政策(位:1661〜1722年)
・三藩の乱(1673〜81年)
=雲南(呉三桂)・広東(尚可喜)・福建(耿継茂)
→平定
・鄭氏台湾を征服→中国統一完成(1683年)
・ネルチンスク条約(1689年)
―対ロシア(ピョートル大帝)
→外興安領(スタノヴォイ山脈)とアルグン川を 国境(最初の欧との対等な国際条約)
・イエズス会以外のキリスト教の布教を禁止(1706年)
—典礼問題(孔子や祖先を祀る儀式)により
・盛世滋生人丁(1711年以後の増加人丁:成年男子)に対する人頭税(丁税)を廃止
・ジュンガル部(オイラト系)の侵入撃退
→外モンゴル(ハルハ部)を領有(1696年)
・チベットを領有(1720年)

★ 5代雍正帝(世宗)の政策(位:1722〜35年)
・軍機処を設置(1732年)
—政治・軍事の最高機関
・キャフタ条約(1722年)―対ロシア
→モンゴル・シベリアの国境線を画定(国境貿易)
・キリスト教の布教を全面的に禁止(1724年)
・青海(チベット高原北東部)を征服(1724年)

★ 6代乾隆帝(高宗)の政策(位:1735〜95年)
・ジュンガル部(オイラト系:天山北路)を征服
(1758年)と
・回部(ウイグル人:天山南路)を征服(1759年)
=新疆(省)を設置
→領土最大
・理藩院を整備
 ―藩部(青海・新疆・チベット・モンゴル)を統轄
 直轄地(18省)―満州・中国本土・台湾
 藩部―自治、間接統治
 属国―朝鮮・ヴェトナム・タイ・ビルマ・琉球
・広州一港に貿易港を限定(1757年)
 →公行(コホン:特許商人)に外国貿易の独占許可
・英使節マカートニーの来朝(1792〜94年)
 →貿易拡大の要求を拒否

※ 乾隆帝の退位後、白蓮教徒の乱(農民反乱:1796〜1804年:仁宗嘉慶帝)
→清の衰退

3. 清の中国支配
〇 懐柔策
—満漢偶数官制、中国文化の尊重(科挙実施)
〇 威圧策
—辮髪(べんぱつ:満州風俗)の強制
思想統制(文字の獄・禁書令など)

4. 清の社会
〇税制―地丁銀制への転換(18世紀前半:雍正帝の頃)
 =丁銀を地銀(地税)にくりこんで一括徴収
(人頭税の廃止)

※ 中国税制史のまとめ
① 租庸調(唐)
② 両税法(唐末〜)
③ 一条鞭法(明・清)
④ 地丁銀(清)
 
〇 外国貿易—イギリスへの茶の輸出
  →銀の流入(片貿易)

(2024/02/12)

[ 3 ] イスラーム世界の繁栄

1. テイムール帝国(1370~1507年)
都: サマルカンド

(1) 帝国の建設
・建国者:テイムール(モンゴル系イスラム教徒)
チャガタイ=ハン国の土豪割拠の中から起こる〔西〕
→旧チャガタイ=ハン国領を統一
・西進してイル=ハン国を併合
→キプチャック=ハン国、西北インドを攻略
→西アジア大半を占める大帝国
・小アジア進出
—アンカラの戦い(1402年)で、オスマン=トルコを破る
(バヤジット1世を捕虜に)
・イスラム的モンゴル帝国再建を企てる
→明(永楽帝)への遠征の途上、病死(1405年)

(2)文化
・歴代皇帝の文化保護
—3代シャー=ルフ、4代,ウルグ=ベグの頃隆盛
・イラン=イスラム文化
→中央アジアに伝わり、トルコ=イスラム文化発達
・細密画(ミニュアチュール)、暦法、天文学など

(3)帝国の崩壊
各地の支配者に貢納を約束させただけの支配
→トルコ系ウズベク族の侵入で崩壊

2. オスマン=トルコの成立と発展
(1299~1922年)

(1)建国から16世紀初め
・オスマン=ベイ(1世)(オグズ族出身)
=ガーズイ(戦士集団) の長
—小アジアで建国

都:プルサ(2代:オルハン)
バルカン進出(ビザンティン帝国領:14世紀)
都:アドリアノープル(現エデルネ)
(3代ムラト1世)
・コソボの戦い(1389年:ムラト1世)
—バルカン同盟軍を破る
→バルカン進出

・イェニチェリ(火器歩兵軍団)の成立
—親衛隊(キリスト教徒の子弟の改宗)
←デウシルメ制により徴用

・ニコポリスの戦い(1396年: 4代バヤジット1世)
→ハンガリー王(後独皇帝) ジキスムント中心の欧連合軍を破る
=カイロのアッバース家からスルタンの称号を得る

・アンカラの戦い(1402年:バヤジット1世)
—テイムールに敗れる
→一時、帝国は崩壊
→再建(5代:メフメト1世)

・メフメト2世
コンスタンティノープル占領(I453年)
→ビザンティン帝国滅亡:
イスタンプール遷都
クリム=ハン国を保護国とし、黒海の制海権を握る
バルカン半島の大半を領有(ギリシアなど)
トプカプ宮殿の建設(I478年)

・セリム1世(9代)
チャルディラーンの戦い(I514年)
—サファビー朝を破る
マムルーク朝(エジプト)を征服(I5I7年)
→スルタン=カリフ制の契機(禅譲伝説:理念は18世紀末)
→メッカ・メディナの保護権を獲得(イスラーム世界の盟主)

(2)スレイマン1世(大帝)
(1520~66年:最盛期:カーヌーニー)

・モハッチの戦い(1526年)
―ハンガリー(ラヨショ2世)を征服
・第1次ウィーン包囲(1529年)
―対独皇帝カール5世
・フランスと同盟締結フランソワ1世:1536年)
→カピチュレーション(領事裁判権・通商特権)を与える
(正式にはセリム2世:1569年)

・チュニス占領(1534年:総督バルバロス)
・イラン・イラク遠征(1534年)
→タプリーズ・バグダードを攻略
=ペルシア湾岸への交易ルートを押さえる

・プレヴェザ沖の海戦(1538年)
―対スペイン・ヴェニチア・教皇・独皇帝連合軍(キリスト教徒軍)を破る
→地中海の制海権を獲得
・アルジェリア占領(1560年)

(3)オスマン帝国の統治体制

※ガーズイ(イスラム戦士集団)体制

〇 軍制
・イェニチェリ(キリスト教徒の子弟の改宗者:宮廷奴隷=カプ=クル)
—デウシルメ制(キリスト教徒の子弟の徴集)により
・シパーヒー(トルコ人騎兵)
—テイマール制(封土を与えられ徴税権を認められる)により

〇 法制
・カーヌーン(行政法:世俗法)—スルタンの勅令
・シャーリヤ(イスラム法:宗教法)

〇統治機構(スルタン御前会謙:トプカプ宮殿)
・大宰相(サドラザム)
—政治・軍事・外交の全権を掌握
・官僚層←デウシルメ出身
・ウラマー層(カーディー法官;ムフティ法学者)
←マドラサ(イスラム高等学院)より

〇地方制度
州(30余:総督)・県・郡(カーディが行政権)
ティマール制の直轄領と間接統治領(徴税のみ)

※中国の「科挙」のようなシステムは不在

(4)衰退—スレイマン死後(セリム2世)
キプロス占領(1570年)
→レバント沖の海戦(1571年)
—スペイン(フェリペ2世)・ヴェネチア連合艦隊に敗北
→東地中海の制海権は維持
第2次ウィーン包囲失敗(1683年)
カルロヴィッツ条約(1699年)
—オーストリアにハンガリーを割譲

3. サファヴィー朝ペルシア
(1501~1736年)

建国者:イスマイール1世
—神秘主義教団(サファヴィー教)教主
トルコマン遊牧民の信者を集結
1501年、テイムール帝国崩壊後ウズベク族(シャイバニ朝)を倒す
→イラン全域の支配権を握る
軍隊の主力は、キジルバシュ(トルコ系騎馬軍団)

シーア派イスラーム教を国教(十二イマーム派)
都:タブリーズ
キジルバシュの有力者を地方長官に任命。
行政官僚にはイラン人貴族を任命

オスマン=トルコ(スンナ派)と抗争
→“シャー“の称号(古代イランの王)
チャルディラーンの戦い(1514年)
—イスマイール1世対セリム1世
(対イェニチェリ、キジルバシュ大敗)
セリム1世の勝利
→タブリーズ占領

★ アッバース1世(1587~1629年:全盛期)
新都イスファハーンを建設・遷都(1597年)
—「世界の半分」と称えられる
軍制改革
ゴラーム(王の奴隷)を「近衛軍団」としてキジルバシュに対抗
中央・地方の要職につける
→中央集権化
・タブリーズ、バグダード(スレイマン1世占領:1534年)オスマンより奪取
・ホルムズ島
—ポルトガル人を追放

※サファヴィー朝国家の基礎
キジルバシュ(トルコマン遊牧民)の部族軍団

アッバース1世の改革は一時的に集権化に成功(遊牧部族組織残存)
→死後、中央の統制緩む
→トルコマンの活動活発、財政悪化、側近政治の禍、
→王権の弱体化
→マフムード率いるアフガン族によってイスファハーン占領され、事実上滅亡(1722年)

(2024/02/13)

4. イスラーム時代のインド 

※ ウマイヤ朝の侵入(8世紀初)

(1)ガズナ朝(962〜1186年)
トルコ系イスラーム王朝
—アフガニスタン支配
都:ガズナ
サーマン朝(イラン系)より独立
アフガニスタンを拠点
→北インド(パンジャーブ)侵入
マフムード(998〜1030年)の遠征
(「ジハード」)
→ラージプート諸王国を撃破

(2)ゴール朝(1148〜1215年)
※ イラン系あるいはトルコ系
都:ゴール
ガズナ朝から独立
— ムハンマド(1174〜1206年)の北インド遠征
→ラージプート諸王国撃破(1192年)
アフガニスタンから西北インドを支配
→イスラーム教を強制、イスラーム化
ホラズム朝により滅亡(1215年)

(3)デリー=スルタン(サルタナット)朝
(13〜16世紀)
 5王朝の興亡(イスラーム王朝)
アッバース朝カリフよりスルタンの称号

① 奴隷王朝(1206〜90年:トルコ系)
ゴール朝の将軍アイバク(マムルーク)、
ムハンマドの死で自立、建国
都: デリー
モンゴルの侵入を撃退(バルバン:1266年)

② ハルジー朝(1290〜1320年:トルコ系)

③ トゥグルク朝(1320〜1414年:トルコ系)
—ティムールの侵入、混乱により衰退(1398年)
イブン=バットゥータの訪問(1333年 )

④ サイイド朝(1414〜51年:トルコ系)
—ティムールの武将ヒズル=ハン建国

⑤ ロディー朝(1451〜1526年:アフガン系)
—アグラ遷都(1506年)

※ 14世紀末、デリー政権の弱体化
・デカン高原:
バフマニー(ン)朝(1347〜1527年)
アフガン系
—トゥグルク朝の武将の独立

・南インド(ドラヴィダ系):
ヴィジャヤナガル王国(1336〜1649年)
—ヒンドゥー教徒
ポルトガルとの交易で繁栄

※ 1498年:
 ヴァスコダ=ガマ、カリカット到着
※ 1510年:
 ポルトガル、ゴア占拠
—友好関係を保つ

5.ムガル帝国(1526〜1858年)

(1) 建国者:バーブル(1526〜30年)
ティムールの子孫(トルコ系)
パーニパットの戦い(1526年)
→ロディー朝を破る
都:デリー
※ トルコ散文学の傑作『バーブル=ナーマ(書)』(回想録)
 
(2) 2代フマーユーン(1530〜50)
アフガン系スール朝(シェール=シャー)に敗北
→サファビー朝に亡命(1544〜55年)
→シェール=シャー死後、デリーの支配権回復

★ 3代アクバル(1556〜1605年)の政策

(a) 中央集権体制の確立
—州県制(スーバ・サルカール制)と
マンサブダール制(位階制)

(b) ジズヤ(人頭税)の廃止(1564年)
—ラージプート族(諸王)(ヒンドゥー教徒)の懐柔
自ら、ヒンドゥー教徒の王女を妻に

(c) ディーネ=イラーヒー(神聖宗教)創始
皇帝が教主
 —ヒンドゥー教、ジャイナ教、イスラーム教、
ゾロアスター教、キリスト教の折衷

(d) アグラ遷都

(3) 4代 ジャハンギール
(4) 5代シャー=ジャハン
デリーへ再遷都
タージ=マハルの建設
(愛妃ムムターズ=マハルの墓廟)

★ 6代アウラングゼーブ

—最大領土(デカン高原を制圧:1691年)
都:デリー

(a) スンナ派を信仰
→ジズヤ復活(1679年)
→ラージプート族(諸王)、異教徒の反乱

(b) 三大勢力
①西インド:
ラージプート族(ヒンドゥー教徒)
②デカン:
マラータ王国(同盟)(ヒンドゥー教徒)
建国者:シヴァージー(1674年)
③パンジャーブ地方:
シク教徒の抵抗

※ アウラングゼーブの死後、
各地に藩王(ナワーブ)が自立
イギリス・フランス勢力の進出(17世紀〜)

<ムガル帝国の州県(スーバ・サルカール)制>

※ 中央集権的体制と分権的性格

〇 皇帝
〇 スーバ(州:12)
 ・州総督(スーバダール:2名)
 ・州軍事長官(スィーパ・サラール)
 ・州財務長官(ディワーン)
(マンサブダール)
〇 サルカール(県)
 ・中央から派遣された役人
(マンサブダール)
〇 パルガーナ(郡)
・中央から派遣された役人
(マンサブダール)
〇 村落連合
・ザミンダール(在地の世襲的役人)
 =中小豪族(徴税請負)は中央から派遣された役人に協力
郡長(チャウドリー)
村長(パテル)など

<マンサブダール(マンサブ保有者)制>
マンサブ(禄位、位階):
−帝国の文武の官職者すべてに与えられた。
「ザート1,000/ サワール500」などと表示。
ザートは(本)人を意味し、その数値が本人の官職上の地位と給与を示す。
サワールは「騎兵」を意味し、サワールの数値は、維持を義務づけられた騎兵の数とその維持費を示す。
つまり、この場合は官職上の地位は1,000、維持しなければならない騎兵は500となる。
ザートは、最低10から最高5000まで。

5.インド=イスラム文化

① シク教
ナーナクが創始(16世紀)
←カビール(宗教改革家)の影響
−ラーマ神もアッラーも同じ神の別名
偶像崇拝やカースト差別に反対
シク教の特徴:
・イスラーム教とヒンドゥー教を習合(教義の折衷)
・一神教的
・偶像崇拝を禁止
・カーストを否定
→パンジャーブ地方に広まる

② 建築
—タージ=マハル廟
(5代シャージャハン建設:アグラ)

③ ムガル絵画(写実的)、ラージプート絵画(ヒンドゥー教神話)、
←ペルシアのミニアチュール(細密画)の影響

④ イスラームの神秘主義者(スーフィー)信仰の影響を受ける

⑥ ヒンドゥー教のバクティ信仰(絶対帰依)
→南インドで発展(7〜8世紀)

⑦ ウルドゥー語(現パキスタンの公用語)の成立
—北インドの口語(ヒンドゥー語文法に、ペルシア・アラビア系の単語の導入) 
←→ヒンドゥー語(現インドの公用語)
※ ムガル帝国の公用語はペルシア語

⑦ 『バーブル=ナーマ』(バーブルの回想録)、
 『アクバル=ナーマ』(アクバルの統治記録)

(2024/02/24)

第9章 欧米における近代社会の成長

[ 1 ] 産業革命

1.イギリス産業革命(18世紀後半)

(1)特徴
 農村家内工業・問屋制度による手工業(プロト工業)
 →工場制手工業(マニュファクチャ)から工場制手工業へ
→社会変化

(2)条件
① 資本の蓄積
←毛織物産業・重商主義政策により
※ 大西洋の三角貿易(18世紀)
・イギリス(武器・綿織物)
・西アフリカ(黒人奴隷)
・西インド諸島(砂糖)

② 市場・原料供給地の確保
←植民地戦争の勝利により

③ 労働力の確保
←第2次囲い込み運動(穀物生産)により
  →没落農民(元ヨーマン)の都市への流出
  農業革命
=三圃制より四輪作法(ノーフォーク農法)へ転換
 →資本家的農業経営が始まる
  農業三分制
=地主・借地農(農業資本家)・農業労働者

④ 豊富な国内資源—石炭・鉄鉱石

⑤ 科学革命
—経験論・合理論を基礎に、自然科学が近代 学問として確立
  王立協会(科学者集団)の創立
→多くの科学者の登場(ニュートンなど)
  毛織物産業の技術と伝統

⑥ 市民革命(ピューリタン革命・名誉革命)
→自由な経済活動が保証
→中産階級の台頭  

(3)機械技術の発明(技術革命)
—綿工業(綿織物)
  
<織布部門>
・ ジョン=ケイ
—飛び杼(ひ)を発明(1733年)
<紡績部門> 
・ ハーグリーヴス
—ジェニー(多軸)紡績機を発明(1764年)
・ アークライト
—水力紡績機を発明(1769年)
・ クロンプトン
—ミュール紡績機を発明(1779年)
<織布部門>
・ カートライト
—力織機(蒸気機関利用)を発明(1785年)
<綿摘み部門>
・ ホイットニー(米)
—綿繰機を発明(1793年)

(4)動力革命
・ ニューコメン
—蒸気機関の発明(炭鉱での蒸気ポンプ)(1710年)
・ ワット—蒸気機関の改良(1769年)
・ ダービー父子
—コークス製鉄法の発明(1709年)

(5)交通機関の発達(交通革命)
・ トレヴィシック
—蒸気機関車の発明(1804年)
・ フルトン(米)
—蒸気船を発明(ハドソン川航行)(1807年)
・ スティーブンソン
—蒸気機関車の改良(1814年)→実用化
→ストックトン・ダーリントン間に鉄道開通
(ロコモーション号:1825年)
→マンチェスター・リバプール間で鉄道営業開始
(ロケット号:1830年)

(6)産業革命の影響
 工場制機械工業の発展
→イギリスの「世界の工場」化の進展
 =イギリスの世界市場の支配
  →国際的分業体制へ
=近代世界経済システムの成立
(ウォーラースティン論)

 産業社会の成立(資本主義体制)
・ 二大階級の対立
—産業資本家と労働者階級の形成
・ 大都市の発展
—マンチェスター(綿工業)・バーミンガム(製鉄)
・リバプール(貿易港)
・社会問題の発生
—スラム・女性・子どもの労働
・労働問題の発生
—長時間労働・低賃金
→労働運動・社会主義運動の誕生

※ 機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)の発生(1811〜17)

<イギリス以外の産業革命>

〇 フランス
—1830年代(七月王政期)に本格化
〇 ドイツ
—1830年代に開始
ドイツ統一(1871年)を契機に急進展
〇 アメリカ
—1810年代に北部で開始
南北戦争(1861〜65年)を機に本格化
〇 ロシア
—1880年代に開始
1890年代に急進展(フランスの資本導入)
〇 日本
—明治維新(1868年)以後に開始
日清戦争以後(1890年代)に本格化

(2024/02/15)

[ 2 ] アメリカの独立革命

1. イギリスの北米植民地(13植民地)
(1)13植民地の形成
(17〜18世紀:自治・領主・王領植民地)

① ヴァージニア植民地
 −英、最初の北米植民地
 ジェームズタウンの建設(1607年)
② ピルグリム=ファーザーズ(清教徒:メイフラワー号)
 →プリマス植民地建設(1620年)
 →ニューイングランド植民地へ発展
③ マサチューセッツ植民地(1629年)
 —ニューイングランドの中心
④ ニューヨーク植民地(1664年)
 ←オランダより獲得(第2次英蘭戦争)
 (ニューアムステルダムをニューヨークと改称)
⑤ ペンシルヴァニア植民地(1681年)
 —ウィリアム=ペン(クェーカー教徒)の建設
⑥ ジョージア植民地(1732年)
 —13番目の植民地(王領)

※ 英仏植民地戦争(第2次英仏100年戦争)
・1689〜97年:ウィリアム王戦争(ファルツ戦争)
・1702〜13年:アン女王戦争(スペイン継承戦争)
・1744〜48年:ジョージ王戦争(オーストリア継承戦争)
・1755〜63年:フレンチ=インディアン戦争(七年戦争)
パリ条約—英、ミシシッピ川以東のルイジアナを獲得

(2)13植民地の性格(自治制度)
植民地議会が発展
(北部タウン=ミーティング;南部カウンティ制度)
・北部
 —自営農業・漁業が盛ん(ニューイングランド中心)
・南部
 —プランテーション(黒人奴隷を使用:タバコ栽培:ヴァージニアが中心)

(3)イギリス重商主義政策の強化
  米独立革命の原因(製品販売地・原料供給地)
 (羊毛品法:1699;帽子法:1732;糖蜜法:1733;鉄法:1750)
 英本国以外の取引の禁止、高関税)
 七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)後
 →英本国の財政難
 →課税・徴税を強化
 →英本国と植民地の対立
 「国王の宣言」(ジョージ3世:1763年)
 —アパラチア山脈以西への白人移住の禁止
・砂糖法(1764年)
 —糖蜜(ラム酒の原料)条例の強化
 植民地への輸入に高関税・密貿易の取り締まり
・印紙法(1765年)
 →植民地側の反発(印紙条例会議を開く)
“ 代表なくして課税なし”
(ヴァージニア植民地議会:パトリック=ヘンリー)
 →廃止(1766年)
・タウンゼント諸法(1767年)
 —ガラス・紙・茶・ペンキの輸入税法
 →植民地側の不買運動
 →茶税を除き撤廃(1770年)
・茶法(1773年)
 —東インド会社に茶の独占販売を認める
 →ボストン茶会事件
 →英本国、ボストン湾を閉鎖など

第1回大陸会議(コングレス:1744年)
 —フィラデルフィアで開催
(ジョージア州を除く12州)
 植民地の権利確認と通商断絶同盟(大陸不買同盟)を結成

2. 独立戦争の経過(1775〜83年)
 
1755年 レキシントン(ボストン郊外)で武力衝突
 →戦争の開始(植民地側:ミニットマンの活躍)
 →第2回大陸会議
ワシントンが総司令官に就任
 国王派(ロイヤリスト)・愛国派(パトリオット)・中立派
“我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ”
(パトリック=ヘンリーの演説)
1766年 トマス=ペインが『コモンセンス』を出版
 —独立と共和政を主張
「独立宣言」の発表(起草者トマス=ジェファソンら)
 ←ロック(英)の思想的影響(抵抗権・基本的人権)
 =近代民主主義の原理
1777年 サラトガの戦い
 —植民地軍、英本国軍を破り形勢逆転
  アメリカ合衆国(United States of America)と命名
 —連合規約(1777年9月)により
1778年 駐仏大使フランクリンの活躍
 →米仏同盟成立、仏参戦(ル16世)
1779年 スペイン・オランダ(1780年)参戦
義勇兵(ラファイエット・サン=シモン〔仏〕・コシューシコ(ポ))
1780年 武装中立同盟の成立
 —エカチェリーナ2世(露)の提唱
 —英の海上封鎖に抵抗
1781年 ヨークタウンの戦い(ヴァージニア)
 —ワシントン(独立軍)と仏艦隊の勝利
1783年 パリ条約(英と米)—戦争終結
 →13植民地の独立承認、ミシシッピ以東のルイジアナを米獲得
 ヴェルサイユ条約(英と仏・西)
 —フロリダ・ミノルカ島→スペイン;セネガル→フランス
※ 独立の影響
ラテンアメリカ諸国の独立への刺激
仏に自由思想が広がる・仏政府の財政難→仏革命の原因    
   
3.アメリカ合衆国の建国

(1)憲法制定(1787年)
 連合規約時代
(1777年承認:81年批准:連邦議会発足1781〜88年)
  −各邦(植民地)が、主権・自由・独立を維持
 邦権]主義(連合議会の権限制約)
 →分権的連邦共和国を志向
 =各邦政府が徴税権・通商規制権・軍隊保持権を持つ
 連合政府(各邦の議会代表)
 —国防・外交・鋳貨権限などを認められる
 憲法制定会議(1787年:フィラデルフィアで開催・発案)
 合衆国憲法(1788年発効)
 —連邦主義・三権分立主義・民主主義
 連邦主義
 —連邦政府の権限強化
 → 集権的連邦共和国を志向
 連邦政府
 —外交権・通商規制権・徴税権・軍隊保持権を持つ
 各州に広範な権限を付与(司法・行政・立法・軍事権など)
 <権限を連邦(中央)政府と各州政府に配分>

★ 三権
〇 立法:
(連邦)議会
上院(各州2名:任期6年)
下院(人口比率で各州から選出:任期2年)
〇 行政:
連邦(中央)政府(大統領:間接選挙:任期4年)
〇 司法:
連邦最高裁判所(違憲立法審査権を有する)  

・連邦派(フェデラリスト:賛成派)
 ハミルトン(財務長官)ら中心
 —中央集権を主張
・反連邦派(アンチ=フェデラリスト:反対派)
 ジェアソン(国務長官)ら中心
 —地方分権を主張

(2)発展
1789年 初代大統領ワシントン(任:1789〜97年:連邦政府)
 —ヨーロッパの戦争に対しては中立
1800年 ワシントン市が首都となる

(2024/02/16)

[ 3 ] フランス革命とナポレオン

1.フランス革命

(1)旧制度
(アンシャン=レジーム:革命前の状態)
 ・第一身分(聖職者:0.4〜0.5%)
  —大土地所有者(国土の40%を所有)
 ・第二身分(貴族:1.5〜1.6%)
  —年貢徴税権・官職独占・免税特権
 ・第三身分(平民=市民・農民:98%)
  —政治的に無権利、
  貢租(領主に)、租税(タイユ:国王に)、
  十分の一税(教会に)支払う

 国家財政の窮迫
 ←アメリカ独立戦争の参戦など
  (国王ルイ16世)
  経済危機の深刻化
・ブドウ酒の生産過剰
 →ブドウ栽培業者に打撃
・英仏通商条約(1786年)
 —英工業にフランスの市場を開放
 →仏の工業化の不振
・天候の異常(1788年)
 →フランス全土での穀物不作

 →財政改革の試み
 テュルゴー(重農主義者:1774 〜76年)
 ネッケル(銀行家:1777〜81年、88〜89年)
 を蔵相(財務総監)に登用
 →特権身分への課税を試みる
 →名士会(貴族)の拒否、失敗

(2)革命の勃発
1789年5月:
 三部会の招集(ルイ16世)
 ー1614年以来の開催
 →身分別議決法をめぐり
  特権身分と平民の対立
  アベ=シェイエス『第三身分とは何か』を出版
   (1789年1月)
 →第三身分「国民議会」(宣言)を設立
  (同年6月)
・“球戯場(テニスコート)の誓い”を行う
・憲法制定(国民)議会と改称(国王の承認)
 国王、ネッケル解任
 →パリの民衆(民兵=国民衛兵を編成)
 →バステューユ牢獄襲撃(7月14日)
  
(3)国民議会
1789年8月:
 封建的特権の廃止宣言(8月4日)を行う
 —貴族ノワイユの提議
 ・人格—無償廃止
 (領主裁判権・教会の十分の一税など)
 ・地代—有償廃止
 →農民は土地を所有できず

 人権宣言(17条)の採択
 —ラファイェット(自由主義貴族)らの起草(8月26日)
 “自由・平等(第1条)、主権在民(第3条)、
 私有財産の不可侵(第17条)“
 ヴェルサイユ行進(十月事件)
 →ルイ16世パリへ連れ戻される(議会も)

 ※ 国民議会の諸改革
 ・教会財産の国有化(1789年11月)
 →アッシニア紙幣(公債)の発行
 (1789年12月)
 ・聖職者(民事)基本法決議
 —教会を国家の管理下(聖職者は公務員に:1790年)
 —宣誓拒否聖職者・カトリック教会との対立
 ・ギルドの廃止と営業の自由(1791年)
 ・団結禁止法(ル=シャプリエ法)の採択(1791年)
 ・度量衡の統一
 (メートル法など:正式採用は1799年)

1791年:
 ミラボー(自由主義貴族)の死
 →ヴァレンヌ逃亡事件
(国王・王妃マリ=アントワネット)失敗
 —国王に対する民衆の信頼は失われる

1791年憲法を制定(ブルジョワ憲法)
 ・ 一院制・制限選挙制(財産資格による)
 ・ 立憲君主政
 →国民議会(憲法制定議会)の解散

※ ピルニッツ宣言(1791年8月)
 ・レオポルド2世(墺)
 ・フリードリッヒ=ヴィルヘルム2世(普)
 —ルイ16世支持と革命に対する干渉を宣言

(4)立法議会(1791.10〜92.9)
1791年:
  立法議会の成立
 ・フィヤン派(立憲君主政派)
 —ラファイエット(自由主義貴族)や
  富裕市民
 ・ジロンド派(穏健共和派主義派)
 —中流市民の対立

1792年:
 ジロンド派内閣の成立(3月)
 ・対オーストリア宣戦布告
 ・“祖国の危機”を宣言(7月)
 →義勇兵の招集
「ラ=マルセイエーズ」(後の仏国歌)を歌う
※ルージュ=ド=リール作曲:武器を取れ市民よ、前進…。
 8月10日事件
 —サンキュロット(貧困市民)
  ・義勇兵により
 →テュイルリー宮殿を占領
(王権停止:王はタンプル宮に幽閉=第2革命)
ヴァルミーの戦い
 —フランス国民軍の初勝利(対墺・普)
※ ゲーテ『滞仏陣中記』
「今日、そしてここから新しい世界が始まる」

(5)国民公会
(男性普通選挙:1792年9月〜95年10月)
 ジャコバン派(モンテーニュ派=山岳党)
 →台頭
 ジロンド派(右)と中間派(平原派)
1792年:
 第一共和政の成立(〜1804)
 ←王政廃止を宣言
1793年:
 ルイ16世処刑(ギロチンにより1月)
 →第1回対仏大同盟(3月)の結成
 —英首相小ピットの提唱(英・墺・普・西・蘭)
  徴兵制の施行(2月)
 →ヴァンデー県の農民反乱(王党派が指導)
〇主要機関
・革命裁判所の設置(3月)
 —反革命分子の裁判
・公安委員会の設置(4月)
 —臨時政府(内閣)
・保安委員会の設置(1792年10月)
 —治安・警察を担当

ジャコバン派独裁
 ←国民公会よりジロンド派を追放、逮捕
 →恐怖政治の開始(93年6月〜94年7月)
 中心人物:
 マラー、ダントン、ロベスピエール 

〇 恐怖政治の内容
・マラーが暗殺される(7月)
・ロベスピエールが指導(公安委員会の強化)
・封建的特権の無償廃止
 →自作農の創設
・ジャコバン憲法(1793年憲法)
 ―男子普通選挙・革命権の制定
 —実施されず
・革命暦・メートル法採用の決定
・理性の崇拝
 —反カトリック・非キリスト教運動
(左派エベールが指導)
・王妃マリ=アントワネットの処刑
・左派エベール(94年3月)
 右派 ダントンを逮捕、粛正(94年4月)
 →ロベスピエールの独裁政治
(プレリアール法)
 —裁判は弁護・証人・予審を省いて迅速化
(94年6月)
1794年7月:
 テルミドール(熱月)9日の事件
 →ロベスピエールの逮捕・処刑
 →恐怖政治に終止符
 —穏和派が主導権を握る
 公安委員会の権力縮小
 プレリアール法廃止
1795年: 
 1795年憲法(共和国第3年の憲法)
 —二院制、制限選挙

(6)総裁政府
1795年:
 総裁政府の成立—5人の総裁
※ 市民・農民は政治の安定・
 革命の成果を保証できる指導者を望む
 王党派の反乱(パリ:ヴァンデミエール13日)
 —ナポレオン指揮の軍隊により鎮圧される
 →ナポレオン=ボナパルト
(コルシカ島出身)の登場
1796年:
 バブーフの陰謀事件
 —共産主義の革命準備失敗、逮捕。処刑
  ナポレオンのイタリア遠征
 →カンポ=フォルミオの和約(仏・墺)
 →第1回対仏大同盟の崩壊
1798年:
 ナポレオンのエジプト遠征
 →アブキール湾にて、
  仏艦隊は英のネルソン提督に全滅
 (※ ロゼッタストーンの発見)
1799年3月:
  →第2回対仏大同盟の結成(英・墺・露)
 ブリュメール(霧月)18日のクーデタ
(ナポレオンにより)
 =フランス革命の終結

2.ナポレオン時代

(1)統領政府(1799年〜1804年)
第一統領就任(任期10年)
1800年:
 フランス銀行を設立
第2回イタリア遠征
 —マレンゴの戦いに勝利
(リュネヴィルの和約:1801年)
1801年:
 教皇ピウス7世との宗教和約(コンコルダート)
 →フランスにカトリック復活
1802年:
 アミアンの和約(英:アディントン首相)
 →第2回対仏大同盟の崩壊
 ナポレオン終身統領となる
1803年:
 ルイジアナを米(ジェファソン大統領)へ売却
1804年:
 ナポレオン法典(民法典)を公布
 —私有財産の不可侵、契約の自由、家族関係の強化

(4)第一帝政(1804〜15)
1804年:
 ナポレオン皇帝に即位(国民投票)
1805年:
 第3回対仏大同盟の結成
(英・墺・露・スウェーデン)
 トラファルガーの海戦(英勝利:ネルソン戦死)
 アウステルリッツの戦い(三帝会戦)
 —ナポレオン勝利
 対露:アレクサンドル1世;墺フランツ1世
1806年:
 ライン同盟結成(西南ドイツとライン右岸16連邦)
 →神聖ローマ帝国の消滅
 イエナ・アウエルシュタットの戦い(対普)、勝利
 →ベルリン入城
 大陸封鎖令
 —英への経済封鎖と仏産業の保護育成が目的
1807年:
 ティルジットの和約(仏と露・普)
 →ワルシャワ大公国の成立(旧ポーランド領)
 ウェストファリア王国の成立(普領:エルベ左岸)
○プロイセンの国制改革
・シュタインとハルデンベルク]の改革
 —農民解放、軍制改革、教育改革(ベルリン大学創設)
・フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(連続公演)

※ ナポレオン一族
兄ジョセフ:ナポリ王、スペイン王
弟ルイ:オランダ王
弟ジェローム:ウエストファリア国王 
ジョセフィーヌと離婚(1809年)、
マリ=ルイーズ(ハプスブルク家)と結婚(1810年)

1808年:
 スペイン反乱(ゲリラ=小さな戦争:〜14年)
 —ナポレオン衰退のきっかけ
1812年:
 モスクワ遠征
 →ナポレオンの敗北
(対露:クツーゾフ将軍による焦土作戦)
1813年:
 第4回対仏大同盟の結成
 ライプチッヒの戦い(諸国民の戦い)、敗北
 →同盟軍、パリ入城
1814年:
 ナポレオン退位
 →エルバ島へ流される
 ルイ18世]即位(ブルボン復古王政)
 —ウィン会議の開会
1815年:
 ナポレオンの百日天下
 →ワーテルローの戦い]
(対英等:ウェリントン将軍に敗北)
 →ナポレオン、 セントヘレナ島へ流される
(大西洋の孤島:〜1821年病死)

(2024/02/17)

第10章 欧米における近代国民国家の発展

[ 1 ] ウィーン体制とその崩壊

(1)ウィーン体制の成立

① ウィーン会議(1814〜15年)
メッテルニヒ(壊外相・首相)
—議長
タレーラン (仏外相)
—正統主義(革命以前)と勢力均衡を主張

② ウィーン議定書(1815年)
・イギリス:
セイロン島・ケープ植民地(旧蘭領)、
マルタ島(旧仏)獲得
・ドイツ連邦成立(35連邦と4自由市:奥盟主)
 ←ライン同盟廃止
・ポーランド立憲王国成立
(国王はロシア皇帝)
・ロシア:
 フィンランド獲得(スウェーデンから)
・プロイセン:
 ライン左岸・ザクセン北半獲得
・オランダ:
 墺領ネーデルランド(現ベルギー)獲得
・オーストリア:
 ヴェネチア・ロンバルディア獲得
・スイス永世中立
・フランス・スペイン・ナポリ・両シチリア王国:
 ブルボン家復位

③ 神聖同盟(1815年)
 —アレクサンドル1世提唱(露:キリスト教精神)
 不参加:オスマン=トルコ、ローマ教皇、イギリス

④ 四国同盟(1816年)
 英·壊・普・露の軍事同盟,
 後、フランスの加入(1818年)
 →五国同盟(反動体制維持の機能

(2)ウィーン体制の動揺

① 自由主義・国民主義の運動
・ブルシェンシャフト (独学生同盟:1818年)
 —独の統一と憲法制定を目指す
・カルボナリ党 (炭焼き党) (伊:1806)年
 —イタリアの統一を目指す反乱(1820年)
 ←墺軍により鎮圧される
・デカプリストの乱(十二月党の乱:露1825年)
 —青年貴族将校(自由主義者)の反乱
 →ニコライ1世即位反対、鎮圧される
・スペイン立憲革命(1820~23年)
 —リエーゴ指導←仏の干渉により失敗

② ラテン=アメリカ諸国の独立
※ 背景
 —ナポレオンのスペイン侵略
 →国王フェルナンド7世の退位
 ブルポン朝の一時消滅
 →ラテンアメリカの離反、自立化
 独立運動の主役
 —クリオーリョ(植民地生まれスペイン系白人)
指導者:
シモン=ボリバル
(ベネズエラ出身:ラテンアメリカの独立の父)
サン=マルティン(アルゼンチン出身)
国際情勢
・アメリカの支持
 —モンロー宜言(1823年:相互不千渉)
・イギリスの支持(カニング外相)
 —ラテン=アメリカ市場が目的

★ 主な独立国
・ハイチ(1804年)
 —中南米初、
 トウサン=ルーヴェルチュール指導
 フランスから(黒人共和国として)独立
・メキシコ(1821年)
 —イダルゴ(クリオーリヨ)指導、
 スペインから独立
・アルゼンチン(1816年)、チリ(1818年)、
ペルー(1821年)
 —サン=マルティン指導スペインから独立
・大コロンビア共和国(1819年)
 —シモン=ボリバル指導、
 スペインから独立
 →解体(1830年)、統合構想失敗
 →ベネズエラ(1811年独立宜言)
 フランシスコ=ミランダ指導
(1819年大コロンビアに併合)、
 コロンビア、エクアドル3国に分離独立
・ブラジル(1822年:~89年帝政)
 —ポルトガルから独立(皇帝ペドロ1世)

③ ギリシア独立戦争(1821~29年)
 オスマン=トルコからの独立を目指す
 秘密結社フィリキ=エテリアの結成(1814年)
 —イプシランティ指導
 フイロヘレニズム(ギリシア愛護主義)の広がり
・バイロン(英:ロマン派詩人)
 —義勇兵として参加、病死
・ドラクロワ(仏:ロマン派画家「キオス島の虐殺」)
 英・仏・露(ニコライ1世の南下政策)の支持
 —東地中海への勢力拡大が目的
 →ナヴァリノの海戦 (1827年)
 英・仏・露対トルコ・エジプト、
 連合軍勝利
 →アドリアノープル条約(1829年:露とトルコ)
 —露:ポスフォラス・ダ—ダネルス海峡の通行権瀧保、
 ギリシア:トルコからの独立の承認。
 →ロンドン会議(1830年)
 国際的にギリシアの独立承認される
 →ギリシア王国成立(1832年:国王オットー即位)

(2024/02/18)

[ 2 ] 自由主義・国民主義の進展

(1)19世紀のイギリス

① 自由主義的諸改革
—産業資本家に有利な改革
※19世紀前半の英における階級対立
—産業資本家対地主(ジェントリ:政権独占)
1828年:
審査法の廃止
—非国教徒(カトリック以外)の公職就任への道
1829年:
カトリック教徒解放法
—アイルランド人オコンネルの活躍
1832年:
第1回選挙法改正
(ウィッグ内閣:グレー首相)
 ←仏七月革命の影響
・腐敗選挙区の廃止
(人口激減、有力地主・地主の特権)
・都市の産業資本家選挙権獲得
(有権者:4.6%:制限選挙)
→チャーチスト運動(1837~58年)
—普通選挙を要求
(「人民憲章」を議会に提出:1839年)
→敗北、運動衰退
1833年:
(一般)工場法の制定
—オーウェン(空想社会主義者)の活躍
1846年:
穀物法(地主保護関税:1815年)廃止
コプデン・プライトの活躍
(反穀物法同盟:1839年マンチェスターにて結成)
1849年
 航海法(クロムウエル:1651年)廃止
—自由貿易主義の確立

② ヴィクトリア時代(19世紀後半:黄金時代)
〇 二大政党時代
—第1回選挙法改正後
・保守党(旧トーリー党)
—貴族・地主階級を支持基盤
首相デイズレーリ(帝国主義政策)
保護関税、大英国主義、スエズ運河の株買収(1875年)、
インド帝国樹立(1877年)
・ 自由党(旧ウィッグ党)
—産業資本家階級を代表
首相グラッドストン(アイルランド問題)
→自治法案を提出
自由貿易、小英国主義
1867年:
 第2回選挙法改正(保守党ダービー内閣)
—都市の労働者が選挙権を獲得

〇 グラッドストン内閣
1870年:
 教育法
―初等教育の普及
1884年:
 第3回選挙法改正
—農村の労働者・鉱山労働者が選挙権を獲得(19%)
=男子普通選挙制が実現

※ 自治植民地の建設(白人系)
カナダ連邦(1867年:自治政府)
オーストラリア連邦(1901年)
ニュージーランド自治領(1907年)
ニューファンドランド(1907年)
南アフリカ連邦(1910年)

(2) ウィーン体制の崩壊
① 七月革命(1880年)
シャルル10世(プルボン復古王政)の反動政治
—亡命貴族への補償金支払いなど
アルジェリア出兵
→占領、植民地化、膳会解散(自由主義派)
→七月革命勃発
—パリ民衆の反乱(老ラファイエット指導)
→国王の亡命
→七月王政
—ルイ=フィリップ
(オルレアン家:自由主義者)即位

② 七月革命の影響
(a) ベルギー独立(国王レオポルド1世)
—オランダから
(b) ポーランド反乱(1830~81年)
→ロシアにより鎮圧される、王国廃止・直轄領に
※ショパン練習曲『革命』
(c) イタリア暴動
(カルポナリ党:1831~32年)
→失敗、消滅
→青年イタリア党成立
(指導者マッツイーニ)
(マルセイユにて)
(d) 英第1回選挙法改正(1832年)

③ 二月革命(1848年)
※ 七月革命以後、仏産業革命の進展
→産業資本家と労働者階級が成立
七月王政(立憲君主制)
・プルジョワの支配
(地主と銀行家:首相ギゾー)
制限選挙制(有権者0.6%)
→産業資本家、中小市民層、労働者の不満
選挙法改正の運動=改革宴会(政治集会)
←政府の弾圧
→パリ市民の暴動(1848年2月)
→ルイ=フィリップ英へ亡命
→共和政の臨時政府成立
=二月革命

④ 第二共和政
 臨時政府
・自由主義者マルチー(ロマン派詩人)
—有産市民を代表
・社会主義者ルイ=プラン
→国立作業場設立(失業者救済が目的)
リュクサンプール委員会を設置
—労働時間の短縮協議
四月男子普通選挙
→社会主義勢力敗北→国立作業所閉鎖
→六月暴動(労働者)
→鎮圧される
(カヴェニャック将軍により)

1848年:
大統領選挙でルイ=ナポレオン(ナポレオンの甥)が当選
1851年:
ルイ=ナポレンのクーデタ
1852年:
ルイ=ナポレオン、国民投票により皇帝に就任
(ナポレオン3世)
=第二帝政
※ ルイ=ナポレオンの支持
・資本家層
—社会的安定を求める
・農民
—資本家と労働者の対立に不安、
ナポレオン時代への追慕の情
・労働者
—共和派政治家に失望

⑤ 二月革命の影響(諸国民の春:1848年)
(a) イタリアで民族運動(リソルジメント)
サルディニアの対オーストリア宜戦(1849年)
→敗北
国王カルロ=アルベルト退位
マッツイーニがローマ共和国樹立
—フランス軍により鎮圧、失敗
(b) ベーメン(ポヘミア:チェック人:バラッキー指導)
ハンガリー(マジャール人: コッシュート指導)で民族独立運動
→ロシアにより鎮圧される
(c) ドイツ三月革命(ドイツ連邦)
→メッテルニヒ失脚(ウィーン)
フランクフルト国民議会
—大ドイツ主義(墺含む)と小ドイツ主義(普中心、壊除く)の対立
→小ドイツ主義の勝利
→ドイツ帝国憲法作成(1849年3月z)
立憲君主制・連邦制
→プロイセン王フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世皇帝就任拒絶
→統一の企ては失敗、議会解散

(3) 19世紀後半のフランス

① フランス第二帝政(1852~70年:ナポレオン3世)
※ポナパルティズム
—プルジョワ勢力とプロレタリア勢力の均衡
民主政治を偽装した独裁政治(馬上のサンシモン)
(権威帝政1852~60年:自由帝政1860~70年)
対外政策
・クリミア戦争(1853~56年)
—トルコを援助
←→露の南下政策原因
—イエルサレム聖地管理権問題(露ニコライ1世)
・アロー戦争(1856~60年)
—英と共同出兵(対清)原因
←アロー号事件により
・インドシナ出兵(仏越戦争)(1858~62年)
(対玩朝越南国)
—コーチシナ東部3省獲得原因
←宣教師殺害事件により
・イタリア統一戦争(1859年)
—サルディニアを支援
→サヴォイ・ニースを獲得
・メキシコ出兵(1861~67年:英・西共同出兵)
—南北戦争中、外債利子不払い宣言
マクシミリアンを皇帝に擁立(ファレスの抵抗)
→失敗、撤兵
・普仏戦争(1870~71年)
原因:スペイン王位継承問題
→セダンで捕虜→第二帝政崩攘

② 第三共和制
1871年:
臨時政府(首相ティエール)
独に降伏(アルザス・ロレーヌ割譲)
←→パリ=コミューン
(社会主義政権:自治政府)結成
→鎮圧される
1875年:
第三共和国憲法(普通選挙:大統領制:二院制)
・1887年ブーランジェ事件(~89年)
—軍部のクーデター事件、失敗
・1894年ドレフュス事件
—軍部によるスパイ事件
ゾラの告発『私は弾劾する』
→政情は不安定

(2024/02/19)

(4)19世紀のロシア

① ニコライ1世の時代(1825~55)

ツァーリズム(専制政治・農奴制)、
1826年:
デカプリストの乱(自由主義運動)
←鎮圧、反動化
・インテリゲンツィア(知識人階級)
→ツアーリズムを批判
・西欧主義(ザパドニキ)
←→スラブ主義(スラヴォフィル)

1828年~29年:
ギリシア独立戦争支援(アドリアノープル条約)
黒海とポスフオラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権獲得
1830年~31年:
ポーランド反乱、鎮圧

★ 東方問題
1831~33年
第1次エジプト=トルコ戦争
ムハンマド=アリ(エジプト太守:オスマン朝)
自立、反乱→シリア領有
→ロシア(南下政策)はトルコを援助
→ウンキャル=スケレッシ条約
—露、ポスフォラス=ダーダネルス両海峡独占通行権獲得
1839~40年
第2次エジプト=トルコ戦争
ムハンマド=アリ、世襲権要求
敗北
←→英・露・墺・普=士
→両海峡中立化・軍艦通行禁止(1840年:ロンドン会議)
—ムハンマド=アリのシリア放棄、世襲化は承認
→1841年には仏も加わって、五国海峡協定成立
1853~56年:
クリミア戦争勃発
原因:
聖地管理権問題(ニコライ1世対ナポレオン3世)
露はトルコ内のギリシア正教徒保護を理由に参戦
経過:
英・仏・サルディニアがトルコ側を支援
結果:
露、敗北
→パリ条約(1856年)
—黒海の中立化
→ロシアの南下政策の挫折

② アレクサンドル2世の時代(1866~81年)
1861年年
農奴解放令(人格隷属は無償廃止、土地所有は有償)
→土地は、ミール(共同体)へ分与
1863年:
ポーランド反乱→反動化
1870年代 :
ナロードニキ運動の進展
—インテリゲンツィアの社会改革運動
標語“ヴ=ナロード(人民の中へ)”
—農民への啓蒙活動
→弾圧され、失敗
→ニヒリズム(虚無主義)・テロリズム化へ

③ 露土戦争(1877~78年)
:原因
ギリシア正教徒の反乱(トルコにて)
→弾圧される
→露、トルコに開戦
結果:
露の勝利
→サンステファノ条約(1878年)
・バルカン三国(セルビア・モンテネグロ・ルーマニア)の独立の承認
・大プルガリア自治獲得(露、保護国)
→ベルリン会議(ビスマルクの仲裁)の開催
・ベルリン条約(1878年)
・サンステファノ条約条約を破棄
・バルカン三国の独立は承認
・大ブルガリア領土は縮小
→露、南下政策挫折
・墺は、ボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得
・英は、キプロスの行政権獲得
トルコは、バルカン半島の領土のほとんどを失う

※パン=スラブ主義とパン=ゲルマン主義の対立
1881年:
アレクサンドル2世、暗殺される

(5) イタリアの続一

1848年:
サルディニア(国王カルロ=アルベルト)対墺宣戦
→敗北、退位
1849年:
サルディニア国王にヴィットリオ=エマヌエーレ2世即位
1852年:
首相カヴール就任
—クリミア戦争に参加
(1855年:英・仏側。仏の支持を期待)
1859年:
イタリア統一戦争の開始
・対オーストリア宣戦
(マジェンタ=ソルフェリーノの戦いに勝利)
・ナポレオン3世の支援
(1858年:プロンビエールの密約)
→サヴォイ・ニースの割譲を約束
・ロンバルディア・パルマを獲得
←ナポレオン3世の裏切り
(1859:ヴィラフランカの和約=仏と墺の単独講和)
1860年:
中部イタリア併合(トスカナ・モディナ公国)
←人民投票により
サヴォイ・ニースを仏に割譲
ガリバルディ(赤シャツ隊=義勇兵)のシチリア上陸
→両シチリア王国を征服
→サルディニア国王に献上
1861年:
イタリア王国成立(国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世)
首都:トリノ(後1865年:フィレンツェ)
1866年:
ヴェネチア併合
←普澳戦争に参加(普側)
1870年:
教皇領を併合(イタリア統一の完成)
←普仏戦争により(仏軍撤退、 伊軍ローマ占領)
→教皇ピウス9世との対立
教皇は「ヴァテイカンの囚人」を宣言
1871年:
ローマ遷都

※ 「未回収のイタリア」問題(トリエステ・南チロル)
※ 山賊大反乱(南イタリア:1861~65年)
北の南に対する支配への反発・抵抗

(6)ドイツの統一

1815年:
ドイツ連邦成立(墺中心:ウィーン議定書)
1817年:
ブルシェンシャフト(独学生同盟)の活動
←メッテルニヒの弾圧(カールスバードの決議)
1834年:
ドイツ関税同盟の成立(1833年結成:プロイセン中心)
一北部(普)、南部(バイエルン王)、中部(ザクセン・ハノーヴァー王)
の3関税同盟の統一
→墺除く
共通の関税率・度量衡・通貨統一
→経済統一を実施
1848年:
三月革命(ウィーン・ベルリン)
フランクフルト国民会議
—ドイツ連邦諸国の代表(憲法制定・統一問題)
大ドイツ主義←→小ドイツ主義(普中心。墺除く)
小ドイツ主義の勝利
→普王、皇帝就任拒否・失敗

1861年:
ヴィルヘルム1世即位(プロイセン)
1862年:
ビスマルク(ユンカー出身)、プロイセン首相に就任
→鉄血政策を実施
1863年:
シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(小公国)問題
ーデンマークの主権下にあった小公国(住民独系)
→デンマークは2公国の併合を試みる
→デンマーク戦争(普・墺は両公国を占領)
1866年:
普壊戦争(七週間戦争)
普の勝利(サドワの戦い→プラーグ条約)
→ドイツ連邦解体、普はシュレスヴィッヒ=ホルシュタインを併合
1867年:
北ドイツ連邦(プロイセン中心)の結成
マイン川以北22国(君主連合体:バイエルンを除く)

→墺、オーストリア=ハンガリー(二重)帝国の成立
(アウスグラィヒ体制)
1870〜71年:
普仏戦争
←スペイン王位継承問題
エムス電報事件(ビスマルクの修正)
→普の勝利
—アルザス・ロレーヌを獲得、60億フランの賠償金
1871年:
ドイツ帝国成立
皇帝ヴィルヘルム1世就任(ヴェルサイユ宮殿にて)

★ ドイツ帝国の特色(外見的立憲主義)
・プロイセン主導(国王が皇帝兼任)の連邦制国家
<22の君主国と3自由市>
・二院制
―帝国議会(普通選挙制)と連邦参議院(各連邦の代表)

ビスマルクの内政<アメとムチ>
・文化闘争(1871~80年)
—南ドイツのカトリック教徒(中央党)と対立
<教皇ピウス9世の死によって自然消滅>
・社会主義者鎮圧法(1878年)
—結社の禁止、集会・出版の制限
←皇帝狙撃事件により
(ドイツ社会主義労働者党の弾圧)
・社会政策
社会保険制度を実施して労働者の生活を保護
<疾病保険制度1883年;災害保険法1884年;養老保険法1889年>
(今日の世界の社会福祉政策の基礎)
・保護関税法(1879年)
―工業製品と農産物の輸入に関税を課す
産業資本家とユンカーの利益を保護

(2024/02/21)

(7) アメリカ合衆国の拡大

①19世紀前半
(a)ジェファソン大統領(第3代:1801~09)年
—反連邦派の勝利(リパプリカン党結成)
(b)米英戦争
—英の通商妨害により勃発
→米の経済的自立(第2次独立戦争)
(c) モンロー宣言(1823年)
—対ヨーロッパ相互不干渉宜言
→以後、米外交の基本原則
(d)ジャクソン大統領(第7代:1829〜37年)
最初の西部出身の大統領(テネシー州)
民主主義の発展(ジャクソニアン=デモクラシー)
=普通選挙の実施
・反ジャクソン派
→ウィッグ党結成
→共和党へ
・ジャクソン派(民主共和党)
→民主党へ

② 領土の拡大
1783年:
ミシシッピ川以東のルイジアナ
←イギリスより割譲
1803年:
ミシシッピ川以西のルイジアナ
←フランス(ナポレン)より買収
1819年:
フロリダ
←スペインより買収
1845年:
テキサス
←テキサス共和国(1836年:独立)を併合
1846年:
オレゴン
←イギリスより併合
1848年:
カリフォルニア、ニューメキシコ
←米墨戦争(1846〜48年)、メキシコより獲得
1867年:
アラスカ
←ロシアより買収

③ 西部開拓
(マニフェスト=ディスティニー:明白な天命)
フロンティアの西進
—ゴールドラッシュにより進展
→インディアンの犠牲
インディアン強制移住法
(1830年:ジャクソン大統領)
1862年:
ホームステッド法
(自営農地法:リンカン大統領)
—国有地貸与、5年後無償供与
1869年:
大陸横断鉄道の開通
→フロンティアの消滅(1890年代)

④ 南北戦争(Civil War : 1861~66)
背景:南部と北部の対立

〇 南部
・産業:(プランテーション綿花・タバコ)
・黒人奴隷制:維持
・貿易政策:自由貿易(英への綿花輸出)
・政党:民主党(州権主義)

〇 北部
・産業:商工業
・黒人奴隷制:反対(生産労働力)必要
・貿易政策:保護貿易(対英棠革命)
・政党:共和党(1854年:連邦主義)

自由州と奴隷州の対立
1820年:
ミズーリ協定
—ミズーリは奴隷州、以北は自由州
1854年:
カンザス=ネブラスカ法
—ミズーリ協定破棄。
各州の住民の決定にゆだねる
→奴隷制拡大の流れ
1852年:
ストウ夫人の『アンクル=トムの小屋』出版
1860年:
リンカン大統領に当選
(第16代:1861~65年:共和党)
1861年:
南部諸州(11州)の分離
—アメリカ連合国結成
(ジェファソン=デヴィス大統領)
首都:リッチモンド
→内戦(南北戦争)
・南軍—リー将軍
・北軍—グラント将軍
1862年:
リンカンのホームステッド法
—西部との提携
1863年:
リンカン、奴隷解放宣言
ゲティスバーグの戦い
→北軍勝利
“人民の人民による、人民のための政治”演説
1865年:
北部の勝利(リッチモンド陥落)

⑤ 南北戦争後
再統一により連邦制国家体制を実現
産業革命の本格的進展
←大陸横断鉄道の完成(フロンティアの消滅)
→資本主義の発展
→帝国主義へ

米西戦争
(1898年:第25代マッキンレー大統領)
→勝利
→フィリッピン獲得(1898年)、
グアム獲得(1898年)、
プエルトリコ獲得(1898年)
(旧スペイン領)

ハワイ併合(1898年)

(2024/02/22)

(8)社会主義思想・労働運動の展開

①空想から科学へ
空想的社会主義(ユートビア社会主義)
産業革命→労働問題や社会問題の発生
空想的社会主義—理想的人道主義
・ロバート=オーウェン(1771~1858年)(英)
紡績工場の経営者
ニュー=ハーモニー村建設(米:1825~29)、
失敗工場法制定に努力(1833年)
「全国労働組合大連合」(1834年)組織
・サン=シモン(17600~1825年)(仏)
米独立戦争に参加、階級闘争は否定
『産業者の教理問答』
・フーリエ( 1772~1837)(仏)
ファランジュ(生活協同組合)を結成
『四つの運動の理論』

② マルクス主義(科学的社会主義)
資本主義社会を学問的に分析
階級闘争→ (革命)
→共産主義社会の成立(私有財産の廃止)
・マルクス(1818~83年) (独)
—弁証法的唯物論(ドイツ=イデオロギー』
『共産党宣言』(1848年) (エンゲルス共著)
『資本論』(1867年)
・エンゲルス(1820~95年) (独)
—『空想より科学へ』
『家族・私有財産および国家の起源』

③ その他
・プルードン(1809~65年)(仏)
私有財産と国家の全廃(無政府主義者)
『財産とは何か』
『貧困の哲学』
・バクーニン(1814~76)(露)
無政府主義者。第一インターナショナルに参加
『神と国家』
・ルイ=プラン(1811~82)(仏)
二月革命の臨時政府に参加
『労働の組織』
・ブランキ(1805〜81年)
—少数精鋭の暴力革命を唱える

<空想的社会主義と科学的社会主義:補足>

〇 ロバート=オーウェン
10時間労働や龍なアパートの建設、
世界初の幼稚園の経営。
→利潤追求ではなく、環境の改善による人間生の増進をはかる

〇 サン=シモン
労働者による理想的産業社会の建設をめざす。
自由に反対し、階層的秩序を重視してそれに服従を求める。
有能な科学者や財産を所有する独裁者が上から統治する社会。

〇 フーリエ
生産と消栄の協同組合的理想社会の実現をめざす。

→彼らは、状況に応じた解決策を考えたに過ぎず、マルクスによって現実分析の弱さと新しい社会への道程を解明できなかった点を批判され、それゆえに「空想的社会主義者」と呼ばれた。

〇 プランキ(無政府主義者)
—少数の革命家が指導し暴力により権力奪取をめざす。

〇 プルードン(同上)
—国家権力の否定によって自由な社会の実現をめざす。

〇 マルクス(当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称す)
—へーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析により社会主義社会への必然的移行を主張した。
『資本論』などで資本主義社会における搾取の根源を剰余価値に求め、資本主義生産しくみを解明し、社会主義を科学としての水準まで高めた。(科学的社会主義)

※ 工場法の制定
1802年:
年少徒弟の労働時間を12時間に制限
1819年:
オーウェンの努力により紡績工場法の制定
—9歳以下の少年の雇用の禁止と9~16歳の労働峙間が12時間に制限
1833年:
一般工場法の制定
—9~13歳の9時間労働、18歳以下の12時間労働が規定
工場監督官の設置が決められた
1844年:
8~13歳の6時間半、女性の12時間労働が定められる
1847年:
女性・児竜の10時間労働が定められる

(2)インターナショナル(国際労働者協会)

① 第一インターナショナル(1864~76年)
(ロンドン)マルクス指導
ポーランド反乱(1863年)を支持して結成
パリ=コミューンを支持
マルクスとプルードン、バクーニンが対立
② 第二インターナショナル(1889~1914年)(パリ)
マルクス主義政党(独社会民主党)が最大
→第一次世界大戦前に崩壊

(3) 各国の社会主義政党
① ドイツ
・全ドイツ労働者同盟設立(1863年)
—ラサール派
ラサール(1825~64年)が設立
普通選挙と社会政策を主張
・社会民主労働党成立(1869)
—アイゼナーハ派
ベーベル W=リープクネヒトら
マルクス主義を採用

両派合同(1875年)
—ゴータ綱領→
・ドイツ社会主義労働者党結成
・社会主義者鎮圧法(1878年)
←皇帝狙撃事件(ビズマルク)により
・鎮圧法廃止(1890年)
・ドイツ社会民主党と改称(SPD)
エルフルト綱領(カウッキー起草)採択
《20C世紀に修正主義の台頭》
・修正主義
—議会主義を唱える
ベルンシュタイン(1850~1932年)の主張
第一次大戦前、戦争政策を支持
・スパルタクス団結成(1916年)
←ローザ=ルクセンプルク、カール=リープクネヒトらにより
独立社会民主党結成(1917年)
—反戦派結集
② イギリス
・社会民主連盟(1881年)
—ハインドマン、ウイリアム=モリスら結成
マルクス主義
・フェピアン協会(1884年)
—ウエップ夫妻、パーナード=ショーらにより
漸進的な社会改革を主張
マルクス主義を批判
・独立労働党(1893年)
—ケア=ハーディー結成
社会主義の漸進的達成
・労働代表委員会(1900年)
—上記3団体に労働組合結集
書記長マクドナルド(1866~1937年)
・労慟党(1906年)と改称
—議会主義(マルクス主義に批判的)
社会民主連盟は不参加
③ フランス
・サンディカリズム(労働組合主義)が盛ん
←無政府主義の影響
・急進社会党(1901年)
—中道政党的色彩(後にダラディエ)
・社会党(統一社会党:1905年)
—ジョレス(1859~1914年)指導
少数党にとどまる
④ ロシア
・ロシア社会民主労働党(1898年)
—プレハーノフ、レーニン創立
マルクス主義を唱える
第2回大会(ロンドン)で分裂(1903年)
・ポルシェヴィキ(レーニン)
・メンシェヴィキ(テレハーノフ・マルトフ)

・社会革命党(1901年)
—ナロードニキの伝統。
1917年 臨時政府設立(右派)
⑤ アメリカ
・労働騎士団(1869年:秘密結社)
—米初の労働組織(職種・人種不問)
・アメリカ労働総同盟(AF L)(1886年)
—ゴンバース組織
職業別労働組合(熟練労働者)
・アメリカ社会党(1901年)
・世界産業労働者同盟(I WW)(1905年)
― AF Lに対抗(未熟練労働者)
・産業別組識委員会(C IO)(1935年)
—ルイス指導
AFLに対抗する勢力保持
→55年(AFL)と合同

(2022/02/22)

第11章 アジア諸地域の動揺

[ 1 ] 近代以降の西アジア

<オスマン帝国支配の動揺>

〇 オスマン帝国の弱体化の原因
(17世紀後半~)

1.中央集権体制の緩み
スルタンが軍務・政務にたずさわらなくなる
→ハレムの皇后・宦官の国政介入
→大宰相をはじめとする官僚の賄 賂などの腐敗

2. イェニチェリの増強
(16世紀の1万から4万に増大)
シパーヒー(騎士)は遠征の負担に耐えきれず
→ティマール(封土)を手放す
→ティマール制の機能の低下
(軍事問題;財政圧迫)

3. 徴税請負制(イルテイザーム) の実施
←ティマール制から
徴税権の終身請負や世襲に変化
→アーヤーン(名士)の登場
→地方勢力として自立化(18世紀以降)、
帝国の分権化・弱体化

※ 第2次ウィーン包囲(1683)失敗 
※ カルロヴィッツ条約(1699)
(対オーストリア・ポーランド・ヴェネチア) 
—オーストリアに:ハンガリーとトランシルヴァニアを割譲
ヴェネチアに:モレアとダルマツィアを割譲
→ヨーロッパからの後退

※ チューリップ時代(1703~30)
スルタン:アフメト3世
大宰相:イプラヒム=パシャ
—西欧の文物の積極的移入、西欧趣味の流行
※ クチュク=カイナルジ条約
(1774年)
第1回ロシア=トルコ戦争
(1768~74年)
—黒海の北岸をロシアに譲り、
黒海の自由通行権を認める

(1) オスマントルコの近代化
・ セリム3世の近代化(18C末〜19C初)
—ニザーミ・ジュデット(新しい制度)
=欧式新軍の設置、造船・造兵・鉱山の開発
→イェニチェリの抵抗のため挫折(1807年)
・マフムート2世
(宰相ムスタファ・パシャ・バイラクタル、暗殺)
—イェニチェリ壊滅(1826年:新軍により)、
ティマール制(土地の徴税権)の廃止
・タンジマート(恩恵改革:1839〜76年)
—ギュルハ勅令発布
 (外相:ムスタファ・レシト・パシャ起草)
アブデュル=メジト1世の上からの近代化
(司法・行政・財政・軍事)
・ ミドハト憲法(1876年)
—二院制議会と責任内閣制(立憲君主)
・アブデュル=ハミト2世
(宰相:ミドハト=パシャ:トルコ憲政の父中心)
→露土戦争でミドハト憲法停止、議会解散(1877年)
→ズリュム(圧政:専制体制)復活
・青年トルコ党革命(1908年:サロニカ)
—エンヴェル=パシャ指導、ミドハト憲法復活、
アブデュル=ハミト2世退位
→立憲君主制

(2) エジプト
・ ムハンマド=アリーの自立
—エジプトの太守(パシャ)に(1805年)
 ムハンマド=アリー朝(1881〜1952年)
 ギリシア独立戦争でトルコを支援
 エジプト=トルコ戦争(1831〜33、39〜40年)
→エジプト太守の世襲権
・ 英・仏の支配下
スエズ運河の開通(1869年)
—レセップス(仏)により
スエズ運河会社株の買収(1875年)
—英の ディズレイリー内閣(保守党)、エジプト政府所有の株券を買収
オラビー=パシャの反乱(1881〜82年)
—「エジプト人のためのエジプト」
→英が鎮圧し、エジプトを占領
→事実上の保護国化
→1914年:
 正式に保護国化

(3)アラビア半島
・ワッハーブ派イスラム教
—イスラム教の復古的革新運動(18世紀)
 サウード家の支持を得て教団を確立
・ワッハーブ王国の成立
(1774頃〜1818、1823〜89年)
1818年:
 ムハンマド=アリーによりいったん滅亡

(4)イラン(ペルシア)・中央アジア
・カージャール]朝(1796〜1925年)
 トルコ=マンチャーイ]条約(1828年)
—ロシアにアルメニアなどを割譲
 不平等なイラン開国条約
・ バーブ教徒の反乱(1848〜50年)
—バーブ教徒を中心とする農民反乱
・イラン・中央アジアをめぐる英・露の対立(19世紀後半)
・タバコ=ボイコット運動(1891年)
—アフガーニー(パン=イスラム主義)の運動
→イラン立憲革命(1905〜11年)
→英露の干渉により挫折
・ロシア(ウズベク3ハン国を征服)
ボハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国を保護国化、
コーカンド=ハン国併合
イリ条約(1881年)
—トルキスタンでの露・清の国境を画定
・イギリス
第2次アフガン戦争(1878〜80年年)
その結果、アフガニスタンの事実上の保護国化
(1881年;正式には1905年)
※英露協商(1907 年)
英:イラン南東部を勢力圏
露:イラン西北部を勢力圏

(2024/02/23)

[ 2 ] イギリスのインド支配

(1)東インド会社のインド進出
英東インド会社 設立(1600年)
−喜望峰よりマゼラン海峡に至る海域の貿易独占権
アンボイナ虐殺事件
—モルッカ諸島の支配をめぐる英蘭の争い
→英、オランダに敗れ、インド経営に専念
〇 三大拠点の建設:
・マドラス (1640 年)
・ボンベイ(1661年)
・カルカッタ (1690 年)
英蘭戦争(1652-54,65-67,72-74年)に勝利
→オランダの制海権弱体化、英優位が確立

(2) 英仏の抗争
フランスのインド経営
—仏東インド会社設立(1604年)
・ポンディシェリ
・シャンデルナゴルを獲得
ムガル皇帝、ナワーブ(土侯)の許可
→英仏は帝国の内紛に乗じて土侯を買収
→勢力拡張を図る
フランス総督デュプレックッスの活躍
→イギリスを圧迫
プラッシーの戦い
—英東インド会社軍対フランス・ベンガル土侯連合軍
東インド会社書記クライブ の活躍
—英の勝利、ベンガル地方を確保
ムガル皇帝からディワーニ(徴税・財政権)を獲得
→“英領インド”の基礎を築く
※ カーナティック戦争(1744〜63年)
—南インドにおける英仏間の3回にわたる植民地戦争
→英、勝利

(3)東インド会社のインド経営
初期の民族抵抗
・マイソール戦争 (4回1767〜99年)制圧
→南インドを支配下
・マラータ戦争 (3回1775〜1818年)制圧
→デカン高原西部、支配下
・シーク戦争 (2回1845〜49年)制圧
→パンジャブ地方併合
19世紀半ば、ほぼインド全域を勢力下に置く
(ムガル皇帝は名目上の存在)

(4)東インド会社の統治機関化
東インド会社の財政難
→英政府の管理下
インド統治法(1773年)
—初代ベンガル総督ヘースティングス
イギリス産業革命の進展
→綿工業育成のための関税策
インド綿布本国市場より排除
→インドの打撃(反英感情)
インドは原料供給地(綿花)、製品市場(綿織物)に転落
 英資本家、自由貿易を主張
→東インド会社貿易独占権 の廃止(1813年)
  商業活動の全面停止(1833年)
→インド統治機関化

(5)英による植民地支配の強化
①ザミンダーリ制(旧ムガル帝国)
・総督(支配者)
・ザミンダール(在地支配層)
・農民(地代支払い)
=ベンガル州(北インド)で実施
②ライヤットワーリー制
・政府
・農民(ライヤット)土地所有を決定、
地租を支払う
=マドラス・ボンベイ西管区で実施

(6)セポイ(シパーヒー)の乱
(1857〜1859年)
インド人の不満の爆発
—セポイの反乱(第1次独立戦争)
→デリー占領、ムガル皇帝を擁立
社会各層のインド人の参加
—近代的民族運動の先駆
反乱は統一性を欠く
ラクシュミー・バーイの活躍
→鎮圧される

(7)イギリス領インド帝国の成立
ムガル帝国滅亡、東インド会社解散
→本国の直接統治
ヴィクトリア女王、皇帝を兼ねる(1877年)
→英領インド帝国の成立

(2024/02/23)

[ 3 ] 列強の東南アジア進出

(1)イギリスの東南アジア支配
1819年:
ラッフルズ、 シンガポール買収(ジョホール王より)
1824年:
マラッカ獲得(オランダから)
イギリス−オランダ協定
—マラッカ海峡を境に英は北のマレーシア、     
オランダは南のインドネシアを勢力圏
1826年:
海峡植民地建設
(ペナン、マラッカ、シンガポール)
1867年:
直轄植民地化→マレー半島内部を保護下に
ビルマ(ミャンマー)に進出
(仏に対抗:第1次1824〜26年;52〜53年)
1885〜86年:
第3次ビルマ戦争
1886年:
英、全ビルマ占領( アラウンパヤー朝滅亡)
→インド帝国に併合
1888年:
北ボルネオ領有
1895年:
マレー連合州(英保護領)組織
—錫資源、ゴム=プランテーションの経営地

(2)フランスのインドシナ支配
フランス、インドでイギリスに敗北
1802年:
ヴェトナム(阮朝越南国:阮副映)成立を援助
—仏宣教師ピニョー援助
インドシナ半島に進出
→宣教師殺害事件
1858年〜62年:
仏越戦争(ナポレオン3世の出兵)
→コーチシナ東部獲得                    
サイゴン条約(1862年)
1863年:
カンボジアの保護国化
1867年:
コーチシナ西部を占領
—コーチシナ全域の支配の完了
1873〜85年:
劉永福の黒旗軍の抵抗
1883年:
ユエ条約
—ヴェトナムの保護国化
1884〜85年:
清仏戦争
→天津条約(1885年)
—保護権の承認
1887年:
仏領インドシナ連邦成立(ハノイに総督府)
1893年:
ラオス保護国化

(3)オランダのインドネシア支配 
※ オランダ東インド会社(1602年)
1619年:
バタヴィア建設(現ジャカルタ)
1623年:
アンボイナ事件
→英勢力の撃退、オランダ領東インドの基礎
1755年:
マタラム王国滅亡
→オランダ、ジャワ島の大部分を支配。 
1799年:
オランダ東インド会社解散
(ナポレオンのオランダ征服)
1811〜16年:
イギリス、ジャワを占領
1821年:
バドリ戦争(イスラム教徒)
—スマトラ島西部の反オランダ戦争
1824年:
イギリス−オランダ協定
1825〜30年:
ジャワ戦争—王族ディポネゴロの乱
1830年:
強制栽培制度による大農場経営(プランテーション) 
 —コーヒー、サトウキビ、藍など
(東インド総督ファン=デン=ボスにより)
1873〜1912年:
アチュー戦争
→アチュー王国の滅亡(1904年)
1904年:
オランダ領東インドの成立

(2024/02/23)

[ 4 ] 激動の中国

1. アヘン戦争とアロー戦争

(1) アヘン戦争(1840~42年)
背景 清朝支配の動揺
−白蓮教徒の反乱など
清朝の制限貿易(広州:公行の独占)
イギリスの自由主義貿易
交渉使節:
−マカートニー(18 世紀末)、
アマースト(19世紀初)失敗
三角貿易:
英・印・清
−英、アヘンの密輸
林則徐(欽差大臣)の密輸取締
→アヘン戦争、敗北

★南京条約(1842年)
・5港の開港:
広州・厦門・福州・寧波・上海
・香港を割譲
・公行の廃止
※ 追加条約(虎門寨:1843年)
−不平等条約(領事裁判権・関税自主権の喪失)
※ 1844年:
望履条約−対米、
黄捕条約−対仏(英と同等)

(2) アロー戦争(1856~60年)
原因:アロー号事件
→英仏の出兵
結果:天津条約(1858年)
→戦争再発
→連合軍北京占領(円明園炎上)

★ 北京条約(1860年)
天津等11港の開港
外国公使の北京駐在
九龍半島の一部割譲(英へ)
キリスト教布教の自由等

2. 太平天国の興亡と洋務運動

(l) 太平天国の乱(1851~64年:農民反乱)
指導者:洪秀全
−上帝会(キリスト教)が中心
広西省で挙兵
→太平天国を樹立
都:天京(南京)
スローガン「滅満興漢」
→弁髪廃止
天朝田畝制−土地の均分
男女平等
→鎮圧される(郷勇により)
・湘勇(曾国藩:漢人官僚)
・淮勇(李鴻章:漢人官僚)
・常勝軍―ゴードン(英)の指導

(2) 洋務運動(1860~90年代:同治の中興)
契機:アロー戦争の敗北、常勝軍の活躍
→近代化の必要
指導者:曾国藩・李鴻章
内容:富国強兵・軍隊の近代化
スローガン「中体西用」
→日清戦争の敗北で挫折

(2024/02/24)

第四部:現代

第12章 帝国主義とアジアの民族運動

[ 1 ] アフリカ分割

<帝国主義(19世紀末〜)>

〇 帝国主義の概念
他国家・他地域へ勢力範囲を広げようとする国家の侵略的膨張主義

〇 帝国主義の成立
・ 重化学工業の発展(第2次産業革命の進展)
・ 企業の集中・独占の進展
・ カルテル(企業連合:価格協定)・トラスト(企業合同:吸収・合併)・コンツェルン(多種企業による統合支配)
・ 金融資本(産業資本と銀行資本の融合)の成立
・ 後進地域への進出(海外投資の実施)
・ 「世界政策」による分割

〇 世界政策
・ 市場・原料供給地としての植民地の獲得を目的とする
・ 後進地域への経済的進出を目指す。
 海外投資(資本の輸出)
 領土の租借
 鉄道敷設権の獲得
 鉱山採掘権の獲得

※ 暗黒大陸
探検家:
・リヴィングストン(英)
—ヴィクトリア瀑布(南アフリカ)発見(1855年)
・スタンリー(米)
—コンゴ探検『暗黒大陸横断記』(1878年)
 ベルギー国王(レオポルド2世)の援助
→コンゴ国際協会(1878年)
→コンゴ自由国(1885年)(ベルギー王の私領)

※ ベルリン<西アフリカ>会議
(ベルリン=コンゴ会議)(1884年〜85年)
ドイツ(ビスマルク)・フランス両政府が招集
参加国:スイスとバルカンを除く全ヨーロッパ諸国、オスマン帝国、米、(14カ国)
・ ベルギー王領「コンゴ自由国」の国際的承認
・ コンゴ川・ニジェール川の自由航行
・ アフリカ分割の原則(先に占領した国の優先)
—将来アフリカ沿岸に領有地を得た場合には、「実行ある占領」を実地に示し、内陸部を含めた「勢力圏」を相互に承認し合うことが約された。
ヨーロッパにとって、アフリカは交易の対象ではなくなり、分割の対象。

1. イギリス
① エジプト経営
1875年:
スエズ運河の株買収
(1869年:仏レセップス開通)
―首相ディズレリー(保守党)により
→内政干渉
1881年:
オラビー=パシャの乱(軍部)
スローガン「エジプト人のエジプト」
→英に鎮圧され、占領
→保護国化
1881年:
マフディの乱(〜98年:スーダン)
→英により鎮圧、占領

② 南アフリカ経営
1815年:
ケープ植民地をオランダから獲得
(ウィーン条約により)
−セシル=ローズ(ケープ植民地首相)の活躍(1890〜96年)
1899年:
南ア(ブール)戦争(〜1902年)
英植民地首相ジョセフ=チェンバレン
→トランスヴァール・オレンジ両国を征服
1910年:
南アフリカ連邦(英自治領)の成立
→アパルトヘイト(人種隔離政策)を実施
アフリカ縦断政策(カイロとケープタウン)
→「3C政策(カルカッタ)」

2. フランス
1830年:
アルジェリア占領−シャルル10世
1869年:
スエズ運河開通−レセップスによる開削
1881年:
チュニジア保護国化
1896年:
マダカスカル領有
1898年:
ファショダ事件
−仏、アフリカ横断政策(サハラ→ジブチ・マダカスカル)と英縦断政策の衝突
→仏の譲歩で解決
1904年:
英仏協商−ドイツの進出に対抗
英はエジプト、仏はモロッコの優越権を承認
1912年:
モロッコの保護国化
←2度のモロッコ事件の後
(1905年:タンジール事件:1911年アガディール事件)

3. ドイツ
19世紀末:
東アフリカ植民地(現ルワンダ・タンザニアなど)
南西アフリカ植民地(現ナミビア)
1919年:
ヴェルサイユ条約で全ての海外領土を失う

4. イタリア
19世紀末:
ソマリーランドを分割(英、仏と)

(2024/02/25)

[ 2 ] 帝国主義諸国の対立

1. ビスマルク体制(19世紀後半)

仏の孤立化政策を推進
1873年:
三帝同盟の成立−独・墺・露
1878年:
ベルリン会議→三帝同盟の崩壊
(ロシアの離反)
1882年:
三国同盟の成立(軍事的相互援助条約)
−独・墺・伊
←仏のチュニジア占領により(1881年)
1887年:
再(二重)保証条約−独・露
1890年:
ビスマルク引退
→ヴィルヘルム2世の親政

2. ヴィルヘルム2世の世界政策
※ 積極的な対外進出と市場拡大
(軍事力と工業力により)
1890年:
再保証条約の更新拒否
→露、仏に接近
1891〜94年:
露仏同盟の成立(軍事・政治同盟)

★ 独と英の対立
・ドイツの3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バグダード)
→バグダード鉄道敷設権を獲得

・イギリスの3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)と対立

3. 三国協商の成立

1902年:
日英同盟の成立
−英、「光栄ある孤立」政策を放棄
→日露戦争(1904〜05年)
1904年:
英仏協商を締結
→独に対抗
モロッコ事件(1905,1911年)で英仏の協力
1907年:
英露協商締結
→三国協商の成立

4. バルカン問題
※ バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる
・パン=スラブ主義
−露が支援、バルカン半島でのスラブ民族の団結、独立と統一をめざす
・パン=ゲルマン主義
−バルカン半島での独・墺の勢力伸長をめざす

1908年:
青年トルコ党の革命(オスマン=トルコ)
 ブルガリア独立―トルコから
 墺−ボスニア・ヘルツェゴビナを併合
1911年:
第2次モロッコ事件
→伊土(イタリア−トルコ)戦争(〜12年)
伊、トリポリ・キレナイカ(現リビア)を獲得
1912年:
第1次バルカン戦争
―トルコ対バルカン同盟(ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシア)
→トルコ、敗北
1913年:
第2次バルカン戦争
−セルビアなど勝利、ブルガリアの敗北
→ブルガリア、独・墺に接近

(2024/02/26)

[ 3 ] アジア諸国の改革と民族運動

1.列強の中国侵略

(1) 清仏戦争(1884~85年)
フランス、ヴェトナム(阮朝)を保護国(1883年)
→清、敗北
清はヴェトナム宗主権喪失(1885年:天津条約)

(2) 日清戦争(1894~95年)
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)
→日清戦争

★ 下関条約(1895年)
・朝鮮の独立
・日本への領土割譲
(遼東半島・台湾)

三国干渉(露·独・仏により)
→遼東半島を返遠

★ 中国分割
(鉄道敷設権・鉱山採掘権・勢力圏・租界など)
ロシア−東清鉄道敷設権(1896年)
    旅順・大連租借(1898年)
ドイツ−膠州湾租借(1898年)
イギリス−威海衛・九龍半島租借(1898年)
フランス−広州湾租借(1899年)

※ 1899年:
米の門戸解放宣言(国務長官ジョン=ヘイ)

2. 変法運動と義和団事変

(1) 変法自強運動(1898)
背景:
日清戦争の敗北
光緒帝−康有為を登用(立憲君主政)
戊戌の政変(西太后)で挫折

(2) 義和団事変(1900~01)
仇教運動−反キリスト教運動
義和団の北京入城
→スローガン「扶清滅洋」
→清朝、列強に参戦
→8ヶ国共同出兵(日・露等)
→清朝敗北
北京議定書 (1901年:辛丑和約)
→列強の北京駐兵権

3. 日露戦争と韓国併合

(1) 日露戦争(1904~05年)
日英同盟 (1902年)成立−対露
ロシアの満州占領
→日露戦争勃発(1904年)
旅順攻略・奉天会戦勝利
−乃木大将の活躍
日本海海戦(対露;バルチック艦隊)に勝利
−東郷平八郎の活趾
→ロシア第一革命(1905年)勃発

★ ボーツマス条約
セオドア=ルーズベルト(米)の仲介
日本:
・韓国の保護権を獲得
・旅順・大連の租借権を獲得
・南満州鉄道(満鉄)利権を獲得
・南樺太の領有権を獲得

(2) 韓国併合
朝鮮:
国号を大韓と改称(高宗:1897年)
日韓協約:
(1904年、05年統監府設立、07年行政権獲得)
伊藤博文暗殺事件(安重根により)
→日韓併合条約(1910年)

4.辛亥革命

(1) 清末の立憲改革
張之洞の新政−洋務派
科挙(官吏ff用制度)の廃止(1905年)
憲法大綱(1908年)
―明治憲法がモデル(国会開設の公約)

(2) 革命運動の進展
孫文の運動:
・支持基盤(民族資本家、華僑、留学生)
・興中会(秘密結社;1894年)
—ハワイにて結成
・中国同盟会(1905年)
−東京にて結成
「三民主義」:民族主義、民権主義、民生主義
(四大綱領)

(3) 辛亥革命
幹線鉄道国有化
−英・独・仏・米による四国借款(1911年)
→四川暴動(成都)
→武昌挙兵
−新軍総統黎元洪の独立
→武漢三鎮を支配
中華民国を建国(1912年:南京)
−孫文、臨時大総統
袁世凱(北洋軍閥の実力者)、総理大臣就任(清朝)
袁世凱と孫文の密約
→宣統帝の退位(清の滅亡)
→袁世凱、臨時大総統に就任(1913年正式に大総統)
孫文、国民党を結成(1913年:第2革命失敗)
→亡命、中華革命党結成
袁世凱の帝政宣言(1915年)
→袁世凱の死
→軍閥の抗争時代へ(1916~28年)

(2024/02/24)

5. インドの民族運動

※民族資本の成長(綿工業)
インド国民会議(1885年)の開催
→国民会議派(穏健派)が民族運動を展開
1905年:
インド総督カーゾン、ベンガル分割令を施行
―ベンガル州をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒に分割(分割統治政策)
→国民会議派(指導者ティラク)、カルカッタ大会で4綱領を採択
−英貨排斥・スワラージ(自治獲得)・スワデーシ(国産品愛用)・民族教育
1906年:
全インド=ムスリム連盟を組織(英により)
−親英的イスラーム教徒
1909年:
インド統治法(分割統治政策)
※ベンガル分割令廃止(1911年)
首都をカリカット(反英運動の中心)からデリーに移す

6. 東南アジアの民族運動

(1) ベトナム(仏領インドシナ)
1904年:
ファン=ボイ=チャウ、「維新会」を組織
−ベトナムの独立と立憲君主制を目指す
ドンズー運動(東遊運動)
−日本へ留学生を送る
→日・仏両国の弾圧、消滅
→ベトナム光復会を組織(広東)

(2)インドネシア(蘭領東インド)
1911年:
イスラーム同盟(サレカット=イスラーム)の結成
−イスラーム教徒の団結と相互扶助
→対蘭抵抗運動へ(第一次世界大戦期から)

(3) フィリピン
1880年代:
ホセ=リサールによる言論・政治活動
→処刑される
1896年:
フィリピン革命(秘密結社カティプーナン)
→米合衆国の介入
→アギナルド(革命軍)、フィリピン共和国樹立
1898年:
米西戦争(パリ条約)により、米は領有権を獲得
1899年:
フィリピン=アメリカ戦争勃発
→フィリピン共和国の敗北
→米、植民地統治を開始(1902年〜)

(2024/02/26)

第13章 二つの世界大戦

[ 1 ] 第一次世界大戦とロシア革命

1.第一次世界大戦

(1)開戦と列国の参戦(1914〜18年)
1914年:
サライェボ事件(ボスニア)
−オーストリア皇太子夫妻の暗殺
→オーストリアの対セルビア宣戦
→ドイツのベルギー永世中立を侵犯
独・墺(同盟国)←→英・仏・露(連合国)
→日本の参戦(膠州湾・青島攻撃)
伊−中立、後連合国側に参戦(1915年)
トルコ・ブルガリア−同盟国側

(2)戦況
〇 西部戦線
・マルヌの戦い(1914年:仏勝利)
→戦線膠着(塹壕戦)
・ヴェルダン要塞攻防戦(1916年:独が攻勢)
・ソンムの戦い(1916年:連合国が攻勢)
〇 東部戦線
・タンネンブルクの戦い(1914年:独勝利)
→ロシア革命(1917年:三月革命→十一月革命)
「無併合・無賠償・民族自決」(レーニン)
ロシア単独講和(1918年:ブレストリトフスク条約)
〇 海上
英、優勢→独、無制限潜水艦作戦(Uボート)
→米の参戦(1917年)→同盟国の不利
新兵器の使用−戦車・毒ガス・飛行機・潜水艦
→総力戦(国民全体)へ

(3)終結
1918年:
ウィルソン(米)の「十四か条」
ブルガリア・トルコ・オーストリアの降伏
独、キール軍港の水兵の反乱
→ドイツ革命
→皇帝ヴィルヘルム2世の亡命
→休戦へ(独、共和国成立:エーベルト大統領)

2.ロシア革命

※ 第一革命(1905年)
1904〜05年:日露戦争
→血の日曜日事件(1905年:ペテルブルグ)
→ロシア第一革命(1905年)
−ソヴィエト(労働者会議)の結成
皇帝ニコライ2世、十月勅令発布(ヴィッテの進言)
ドゥーマ(国会)開設(1906年)と憲法制定約束
立憲民主党(ブルジョワジー中心)の結成(1905年)
ストルイピンの改革(反動・強圧政治)
−ミール(農村共同体)解体
→自作農の創設

(1) 三月革命と十一月革命
1917年:
三月革命(ロシア暦二月革命)
←第一次世界大戦により
ペトログラード暴動→ソヴィエト結成
→ニコライ2世退位(ロマノフ朝滅亡)
臨時政府樹立
→二重権力
・臨時政府―立憲民主党(リヴォフ公首班)、戦争継続
 →ソヴィエトの支持(社会革命党、メンシェヴィキ)
レーニン(ボリシェヴィキ代表)の“四月テーゼ”
「すべての権力をソヴィエトに」
→七月蜂起(ボリシェヴィキ)失敗
→ケレンスキー(社会革命党)組閣
→将軍コルニロフの反革命、失敗

(2)十一月革命(ロシア暦十月革命)
ケレンスキー内閣打倒−レーニンの指導
「平和に関する布告」―無併合・無賠償・民族自決
「土地に関する布告」−土地私有権廃止
チェカ(非常委員会)設立
1918年:
憲法制定議会―社会革命党が第一党
→レーニンは議会解散
→プロレタリア(ボリシェヴィキ)独裁を確立
対独講和条約(ブレスト=リトフスク条約)締結
←トロッキーの活躍により
ロシア共産党と改称
モスクワ遷都←ペトログラードより

(3)十一月革命後のロシア
1918年:
ブレスト=リトフスク条約→内戦へ
赤衛軍←→白軍=反革命軍
対ソ干渉戦争(〜22年)
英−西北から
日・米−シベリア出兵
戦時共産主義の実施
―穀物の強制徴発→食糧危機
1919年:
コミンテルン(第三インターナショナル)結成
―モスクワにて
1921年:
ネップ(新経済政策〜27年)の採用
−統制の緩和
 中小企業の私的営業の自由、余剰生産物の自由販売→国民経済の回復
→ネップマン(小所有者階級)・クラーク(富農)の復活
1922年:
ラパロ条約(対独)
−初のソ連の承認・外交関係の回復
ソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)成立
(ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカース)
1924年:
英・仏・伊などのソ連承認(1925年:日本承認)
レーニンの死→
1925年:
トロッキー(世界革命論)←→スターリン(一国社会主義論)
→スターリンの勝利
1928年:
第一次五カ年計画(〜32年)
−重工業化(工業国ソ連の確立)、基幹産業(鉄鋼・石油・電力など)
農業の集団化
−コルホーズ(集団農場:土地・農具共有)
 ソフホーズ(国営農場:国有・俸給制)
1933年:
第二次五カ年計画(〜37年)
 −軍事部門に重点、消費財増加
1934年:
国際連盟に加入
←アメリカのソ連承認
スターリンの粛清(〜53年)→独裁(恐怖政治)
1936年:
スターリン憲法(社会主義国の基本法)
−連邦会議と民族会議の二院制(18歳以上の普通選挙)→実質的には権力は共産党が握る

(2024/02/29)

[ 2 ] ヴェルサイユ体制下の欧米諸国

1.パリ講和会議(1919年)
指導原則:
ウィルソン(米)の「十四か条」
・秘密外交の廃止(第1条)
・海洋の自由(第2条)
・関税障壁の除去(第3条)
・軍備縮小(第4条)
・民族自決(第5条)
・国際平和機構の設置(第14条)
主な出席者:ウィルソン(米)・クレマンソー(仏)・
ロイド=ジョージ(英)(三巨頭)
−対独復讐的性格、反ソ・反社会主義体制

2. ヴェルサイユ条約(1919年:独と連合国で締結)
・独、全海外植民地放棄
・アルザス・ロレーヌ→仏に割譲
・ポーランド回廊(東プロイセンと独本土の中間地帯)
→ポーランドに割譲
・オイペン・マルメディ→ベルギーに割譲
・メーメル→リトアニアに割譲
・ザール地方−国際連盟の管理下(15年間)
→人民投票により帰属を決定
・ダンチヒ−自由市として国際連盟管理(ポーランド使用権)
・独の軍備制限−徴兵制廃止、陸軍10万、空軍・潜水艦禁止
・ラインラント(ライン右岸50km)の非武装
・多額の賠償金(1320億金マルク)

3.その他の講和条約
〇 サン=ジェルマン条約(対墺:1919年)
・オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体
→オーストリア(独人のみ)・ハンガリー・チェコスロバキアの3共和国の成立
・セルビア
−ボスニア・ヘルツェゴビナを獲得、モンテネグロを吸収
→セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国の成立(1918年)
→ユーゴスラヴィアと改称(1929年)
・未回収のイタリアの地(トリエステ・チロル)
→イタリアに割譲
・フィウメ→ユーゴスラヴィアに割譲
〇 ヌイイ条約(対ブルアリア:1919年)
・ギリシア・ユーゴに領土を割譲
〇 トリアノン条約(対ハンガリー:1920年)
・チェコ・ユーゴ・ルーマニアに領土を割譲
〇 セーブル条約(対トルコ:1920年)
・イスタンブール周辺を除く欧の領土を喪失
→後、ローザンヌ条約(ケマル=パシャ:1923年)に改定
・ギリシア−小アジアのイズミル(スミルナ)地方を獲得
・イギリス−キプロス島を獲得
※ 中東地域(トルコ領)
 アラビア独立(サウジアラビア中心)
 シリア・レバノン−仏の委任統治領
 イラク・トランスヨルダン・パレスチナ—英の委任統治領
※ 旧ロシア領(ソヴィエト政権が独立承認)
フィンランド;エストニア・ラトヴィア・リトアニア(バルト3国)の独立
※ ポーランドの独立承認

4. 国際協調主義
国際連盟の結成(1920年:本部ジュネーブ)
・総会・理事会(常任理事国:英・仏・伊・日)
・常設国際司法裁判所(蘭のハーグ:1922年)
—国際紛争の仲裁(強制権なし)
不参加国:
アメリカ(上院の反対)
ドイツ(1926年加盟→33年脱退)
ソ連(1936年加盟)

5.ワシントン体制と軍縮
1921年:ワシントン会議(〜22年)
—ハーディング米大統領の提唱(対日)
・海軍軍備制限条約(主力艦の保有制限)
—米・英:日:仏・伊=5:3:1.67
・九ヵ国条約
(米・英・日・仏・伊・中・蘭・ベルギー・ポルトガル)
→中国問題に関して、領土保全・主権尊重を約束
・四カ国条約
(米・英・日・仏)
→太平洋諸島の現状維持(領土尊重)
→日英同盟の解消
1925年:ロカルノ条約
—欧の集団安全保障条約
(英・仏・伊・独・ベルギー・ポーランド・チェコ7カ国)
→ラインラントの非武装を再確認
→独、国際連盟への加盟を承認
1927年:ジュネーブ軍縮会議(補助艦)
―米大統領クーリッジ提唱
→仏・伊不参加で失敗
1928年:不戦条約
—ケロッグ米国務長官=ブリアン仏外相
1930年:ロンドン軍縮会議
—補助艦保有制限(米・英:日=10:7)

6.ドイツ賠償問題
1919年:ワイマール共和国成立
→ワイマール憲法(大統領:エーベルト社会党党首)
1921年:賠償金決定(1320億金マルク)
→独、「支払い猶予要求(モラトリアム)」
1923年:フランスのルール占領(〜25年)
→独、「消極的抵抗」(ゼネストなど)
→大インフレーション
→シュトレーゼマン内閣、レンテンマルクの発行
→インフレの収拾
1924年:ドーズ案
—米の資本貸与(2億ドルの融資)
→仏軍のルール撤退
※ ヴェルサイユ賠償環
米→独へ(資本)
独→英・仏へ(賠償)
英・仏→アメリカへ(戦債返還)
1929年:ヤング案
—賠償金の減額(残額を348億金マルク)
世界恐慌の発生
1931年:フーヴァー(米)=モラトリアム
—一年間の支払い停止
1932年:ローザンヌ会議
—賠償金の減額(残額を30億金マルク)
1933年:ヒトラー政権の成立
→賠償金支払いを拒否

(2024/03/02)

7.イタリアのファシズム
〇 内政
ヴェルサイユ体制への不満(フィウメ獲得失敗)
戦後の経済混乱:ストライキ頻発
→地主・資本家・軍人は、革命を恐れる
→中産層は生活難に苦しむ
ファシスト党の結成:
—ムッソリーニ、ファシスト党(戦闘者ファッショ)を結成(1919年:ミラノ)
→全国ファシスト党へ統合(1921年)
ローマ進軍(1922年)
→国王の指名により内閣組織(ファシズム政権)
総選挙により第1党(1924年)
ファシスト党による一党独裁の成立(1926年)
—他政党を禁止、解散
ファシスト大評議会(党機関)
→国家の最高決議機関に(1928年)
=ファシズム体制の完成

〇 外交
・フィウメ占領・併合(1924年)
・アルバニア保護国化(1927年)
→バルカン半島へ進出
・ラテラン条約(1929年)
—カトリック教会と和解(1870年:教皇領占領)
→ヴァチカン市国(ローマ教皇庁)の独立承認
・エチオピア侵略(1935〜36年)
←国際連盟の経済制裁
→伊、連盟を脱退(1937年)

(2024/03/03)

[ 3 ] 世界恐慌の対策とその影響

1.世界恐慌
欧州:戦後復興による生産回復
米:戦中よりの高い生産力
→過大投資、生産過剰(米の農産物・工業製品)、
米の高関税政策、産業の合理化
→失業者の増加
→購買力の不振
ニューヨークの株式取引所(ウォール街)の株式暴落
(1929年10月24日:暗黒の木曜日)
→金融恐慌
失業者の増大(1,300万人)、倒産増大(銀行4,500件)
→欧から米資本の引き上げ
→全世界に恐慌の波及
→世界恐慌へ
—工業生産力の減少(約40%)、貿易の減少(1/3)

2.アメリカ
フーヴァー=モラトリアム(共和党大統領:1931年)
—独の賠償支払いと英・仏の戦債返還の一年猶予
資本主義の自然回帰能力を信頼→無為無策
フランクリン=ローズヴェルト(民主党:1933〜45年)、
ニューディール政策を実施
—修正資本主義(ケインズ理論)
3R政策=救済(Relief)、復興(Recovery)、改革(Reform)
1933年:
・全国産業復興法(NIRA)
―産業の生産統制(工業製品の価格協定を公認)
・農業調整法(AAA)
—農産物の調整(農産物の価格引き上げ)
・テネシー河域開発公社(TVA)
—公共事業による失業者救済
1935年:
ワーグナー法
—労働者の団体交渉権・団結権を承認
→産業別組織会議(CIO)の成立(1938年)
対外政策:
ソ連承認(1933年)
善隣外交(1933年:第7回パン=アメリカ会議)
―プラット条項(1901年:キューバ保護国化)を廃止
→キューバの独立を承認(1934年)
フィリピン独立法(1934年)
—10年後の独立承認(実際は1946年独立)

3.イギリス
1929年:第2次マクドナルド労働党内閣
世界恐慌の波及により
→経済危機→失業保険の支払いの増大
→失業保険削減を含む緊縮財政の提案
→労働党の反対→マクドナルド、首相を辞職
1931年:マクドナルド挙国一致内閣組織(〜35年)
(保守党・自由党の協力)
ウェストミンスター憲章(1931年:本国と自治領は平等)
→英連邦の成立
オタワ会議(英連邦経済会議:1932年)
—ブロック経済を形成(排他的関税障壁を設ける)
—スターリング(ボンド)=ブロックの形成
金本位制の停止(1931年)
→米(1935年)、仏(1937年)へ波及
1935年:保守党内閣の成立(〜40年)
ボルドウィン首相(1935〜37年)→
ネヴィル=チェンバレン首相(1937〜40年)
—独への宥和政策を実施(ナチス=ドイツの反ソ態度)

4.フランス
フラン=ブロックの形成(恐慌の影響:1932年)
1935年:仏ソ相互援助条約の締結
—独、ナチスに対抗(1933年ヒトラー政権成立)
1936年:人民戦線内閣の成立
—ブルム首相(社会党・急進社会党連合:〜37年)
—反ファシズム統一戦線

(2024/03/03)

[ 4 ] ナチスの台頭と第二次世界大戦

1.ナチスの台頭

(1)ナチ党(国民(国家)社会主義ドイツ労働者党)の結成(1920年)
—党首ヒトラー(オーストリア出身)
※ ナチス(複数形)は、ナチ党員やナチ関連組織メンバーをさす。
「二十五か条の綱領」を発表(1920年)
—ヴェルサイユ体制打破、ユダヤ人排斥、民族共同体を唱える
突撃隊(SA:武装組織:指導者レーム)、親衛隊(SS:隊長ヒムラー)を創設
ミュンヘン一揆(1923年:ナチスによる武装蜂起)
→失敗
※ヒトラー『我が闘争』(獄中にて口述筆記)
世界恐慌後の経済危機
→共産党とナチ党の勢力増大
→資本家・軍部は最終的にナチ党を支持

(2)ナチ党政権の成立
1932年:総選挙で第一党
1933年:ヒトラー内閣の成立
※ ヒンデンブルク大統領の「緊急勅令」(憲法48 条)
→大統領内閣の組閣
1933年:国会議事堂放火事件
→共産党を非合法化
全権委任法(国会の立法権を政府に委ねる)制定
→ナチ党の一党独裁の実現

(3)ナチ党の独裁
ゲシュタポ(国家秘密警察)の創設
→ユダヤ人の迫害
1933年:ヒトラー、総統(フュ—ラー)に就任
←ヒンデンブルク大統領の死後
1936年:四カ年計画を実施
—軍需・土木事業で失業者を吸収

2.第二次世界大戦前史

(1)ドイツの動静と国際関係
1933年:
独、国際連盟脱退
1935年:
ザール併合(住民投票:91%獲得)
再軍部宣言(義務兵役復活)
→ストレーザ戦線(英・仏・伊)—独に対抗
仏ソ相互援助条約締結(ナチスの進出に対抗)
←→英独海軍協定締結(対英35%の軍艦保有を承認)
伊のエチオピア侵略(〜1936年)→伊は独へ接近
コミンテルン第7回大会(モスクワにて:57カ国、65の共産党)開催
→人民戦線(反ファシズム勢力)を結成
「敵でないものは味方」
1936年:
独、ラインラント進駐(ロカルノ条約破棄)
スペイン人民戦線内閣(アサーニャ大統領)の成立
―社会主義的改革を実施
→フランコ将軍の反乱(モロッコにて)
=スペイン内乱
・英仏:不干渉政策
・ソ連:人民戦線側を支援
・国際義勇兵(ヘミングウェイ(米)、オーウェル(英)
など)
→人民戦線を支援
・独伊:フランコを支援
→ベルリン・ローマ枢軸、成立
フランコの勝利(マドリード陥落:1939年)
防共協定(日独)締結
―コミンテルンに対する共同防衛(反ソ・反共産党)
1937年:
日独伊防共協定締結(ベルリンにて)
―反ソ・反共産党
1938年:
独、オーストリア(ドイツ人)を併合
ミュンヘン会談(英:ネヴィル=チェンバレン;独:ヒトラー;伊:ムッソリーニ;仏:ダラディエ)
―チェコスロバキアのズデーデン地方の帰属問題
→ヒトラーは、ズデーデン(住民7割が独人:チェコ全体では約28%)の割譲(「最後の領土要求」として)を要求
→英は、「宥和政策」を取り、英仏は割譲要求を承認
→独、ズデーデン地方を獲得
1939年:
チェコスロバキア解体
→独、モラヴィア、ベーメン地方を併合、スロヴァキア地方独立(後、保護国)
独ソ不可侵条約締結(8月23日)
→独、ポーランド進撃(9月1日)
=第二次世界大戦の勃発

3. 第二次世界大戦

1939年:
独のポーランド進撃
→英仏の対独宣戦布告(9月3日)
ソ連のポーランド進撃(9.17)
ソ連、バルト三国併合(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)
ソ連—フィンランド戦争(〜40年)
→ソ連の勝利(国際連盟、ソ連を除名)
1940年:
独は、デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーに侵入(5月)
英、チャーチル内閣成立(5)
イタリア参戦(6)
→日独伊三国同盟成立
(ベルリンにて:日本近衛内閣)
パリ陥落(6.14)
→ヴィシー政府(ペタン首相)による休戦締結
→仏第三共和政の崩壊
自由フランス政府(ドゴール将軍;英亡命政権)
→レジスタンス運動の開始
ヒトラーによるユダヤ人の弾圧
—アウシュヴィッツ強制収容所の虐殺(約100万人)
1941年:
独、バルカン半島を制圧(ユーゴ・ギリシアなど)
独ソ戦争開始(6)←日ソ中立条約(4)
大西洋憲章(8):F.ローズベルト(米)・チャーチル(英)
—国際平和機関の再建を構想
1942年:
 英ソ相互条約(5)
 スターリングラードの戦い(独ソ戦:2)
→独軍、壊滅→ソ連の攻勢
1943年:
 連合軍のシチリア上陸(7)
 →ムッソリーニの失脚
 ―イタリアの無条件降伏(バドリオ政権)
 カイロ会談(11:米・英・中首脳会談)開催
 テヘラン会談(11〜12:米・英・ソ首脳会談)開催
1944年:
 連合軍、ノルマンディ上陸作戦(6)—アイゼンハワー連合軍司令官(米)の指揮
 →連合軍、パリを解放(8)
1945年:
 ヤルタ会談:米・英・ソ
 →ヤルタ協定を発表
 ベルリンの陥落
独、無条件降伏(ヒトラーの自殺)
ポツダム宣言(7〜8):米・英・ソ
→日本はポツダム宣言を黙殺
米、広島に原爆投下(8.6)
→ソ連の対日参戦(8.8)
→米、長崎に原爆投下(8.9)
→日本、ポツダム宣言受諾、無条件降伏(8.14)
=第二次世界大戦の終了

<第二次世界大戦末の諸会談>

★ カイロ会談(1943. 11. 22~11. 26)
:ローズヴェルト・チャーチル・蒋介石。
カイロ宣言を発表。
その内容は, 日本の降伏後の領土について,第1次世界大戦後日本が得た太平洋の島の放棄満州・台湾などの中国返還,朝鮮の自由と独立などである。

★ テヘラン会談(1943. 11. 28~12. 1)
:ローズヴェルト・チャーチル・スターリン。
イランの独立と領土保全。
北フランス上陸作戦を44年6月1日に実行すべきことなどが約された。

★ ヤルタ会談(1945. 2. 4~2. 11)
:ルーズヴェルト・チャーチル・スターリン。
ヤルタ協定を発表。
その内容は,米英ソ仏四国によるドイツの占領管理、ドイツ戦犯の裁判、ポーランド・ユーゴスラヴィアにおける新政権の樹立など。
また秘密協定として、ドイツ降伏後3カ月以内のソ連の対日参戦、南樺太・千島のソ連帰属などが決定された。

★ ポツダム会談(1945. 7. 17~8. 2)
卜ルーマン・チャーチル(7/28よりアトリー)・スターリン。
ポツダム協定として、ドイツの非ナチス化・非武装化と連合軍の管理などが定められた。
日本については,日本の無条件降伏を定め、蒋介石に通告しその同意を得て 7月26日米英華3国のポツダム宣言として発表された。
ソ連は8月8日この宣言に参加した。

<第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)>

1940年:フランスの対独降伏
日本の仏領インドシナ進駐(仏印進駐)
 日独伊三国同盟の締結
1941年:日ソ中立条約が締結
 日米交渉開始→不調
 “ABCDライン”形成
→アメリカの対日石油全面禁輸
真珠湾の奇襲攻撃(12.8)
—太平洋戦争の勃発
→独・伊も対米宣戦
日本がマライ・シンガポール・フィリピン・ビルマ(ミャンマー)を占領
 “大東亜共栄圏”の建設を推進
→反日抵抗運動の発生
・ヴェトナムーホーチミンがヴェトナム独立同盟を結成
・中国—共産党(八路軍など)の抗日戦
・朝鮮—金日正(キム・イルソン)の抗日武装闘争
1942年:
 ミッドウェー海戦
 —日本の敗北、これ以後日本軍は敗戦
1943年:
ガダルカナル島撤退
 カイロ会談—日本処理の基本精神を発表
・F.ロ−ズベルト(米)
・チャーチル(英)
・蔣介石(中)
1944年:
サイパン島陥落→日本本土を空襲
1945年:
アメリカ軍の沖縄上陸
 ポツダム宣言
 広島に原爆投下(8.6)
 ソ連の対日参戦(8.8:ヤルタ協定により)
 長崎に原爆投下(8.9)
 →日本の無条件降伏(8.15)
ポツダム宣言を受諾

(2024/03/06)

第14章 戦後の世界

[ 1 ] 第二次世界大戦後の国際関係

1.国際連合の成立

1941年:大西洋憲章(国際平和機関の再建構想:チャーチルとルーズベルト)
1944年:ダンバートン=オークス会議
 国連憲章原案を作成
 安全保障理事会の常任理事国(米・英・仏・中・ソ)を決定
1945年:ヤルタ会談
 常任理事国に拒否権
—大国一致の原則
 サンフランシスコ会議]
—国際連合憲章の採択
→国際連合正式に発足(51カ国)

2.国際連合の機構
 ・本部:ニューヨーク
 ・総会:多数決による票決(各国一票)
 ・安全保障理事会:
―国連で最大の権限を持つ機関
 ・常任理事国(米・英・仏・ソ・中)
—拒否権を持つ
 ・国際司法裁判所(ハーグ)
 ・国連軍を創設
 ・UNESCO(国連教育科学文化機関)・ILO(国際労働機関)・原子力委員会などの付属機関

3.戦後処理

(1) 国際軍事裁判
戦勝国が敗戦国の戦争責任・戦争犯罪を裁いた裁判
・ニュルンベルク裁判(1945〜46年)
—対ドイツ
・東京裁判(1946〜48年)
—対日

(2 ) 講和会議
1947年:パリ講和会議
—連合国と敗戦国(日・独・墺を除く)
1951年:サンフランシスコ講和条約
−日本と48の連合国
(中・ソなどの共産圏諸国やインド・ミャンマーを含まず)
日本は海外領土を放棄
1955年:オーストリア国家条約
—オーストリアは永世中立国家

(3) ドイツ問題の処理
・米・英・仏・ソ四各国が分割占領
・ベルリンも四カ国の分割占領
・オーデルーナイセ川以東のドイツ領はポーランドの統治下に

4.冷戦

(1) 冷戦の開始
・冷戦
—第二次世界大戦後の米・ソを二極とする東西陣営の対立
・戦後の東欧・バルカン
ソ連軍によりナチスから解放(ユーゴスラビア・アルバニアは独力で解放)
人民民主主義政権の成立
共産党を中心として社会主義を目指す(ソ連主導)
・冷戦の進行(以下、☆は東側の動き)
1946年:チャーチルが「鉄のカーテン」演説
—ソ連の脅威を訴える
(バルト海のシュテッティンとアドリア海のトリエステを結ぶ線)
1947年:トルーマン=ドクトリン(米大統領トルーマン)
ギリシア(1946年:王政復古)・トルコへの経済・軍事援助を発表
公然と反ソ・反共の姿勢を示し、「封じ込め政策」へ
マーシャル=プラン(米国務長官)
—ヨーロッパ経済復興援助計画
→ヨーロッパ経済協力機構(OECC成立:1948年4月)

☆ソ連・東欧は参加せず
  
☆コミンフォルム(共産党情報局)結成
—ソ連・東欧諸国と仏・伊共産党が参加
マーシャル=プランに対抗

1948年: 
☆チェコスロバキアのクーデター
—チェコで共産党の独裁政権が成立

西側の危機感が高まり、ブリュッセル条約締結
(英・仏・ベネルクス3国)
→西欧連合(WEU)が成立
    
☆コミンフォルムがユーゴスラビアを除名
 —スターリンとティトーの対立
            
(2) ドイツの分裂
1948年:
米・英・仏三国が占領地区(西ドイツ地域)で「通貨改革」を断行

☆ソ連は「ベルリン封鎖」を実施
—西ドイツ地域と西ベルリンを結ぶ道路の封鎖

西側はベルリンへの空輸作戦で対抗

1949年: 
☆ソ連の譲歩でベルリン封鎖を解除
西ドイツ:ドイツ連邦共和国の成立
☆東ドイツ:ドイツ民主共和国の成立

(3) NATOと東側の対応
1948年:西欧連合(WEU)
チェコスロバキア=クーデターを契機に西欧連合条約で結成
英・仏・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの軍事同盟
→NATOに発展
1949年:NATO(北大西洋条約機構)
 ソ連の軍事的脅威に対する集団安全保障体制
 米・カナダ・イタリアなど12カ国の軍事同盟
 のち西ドイツ加盟(1955)
   
☆コメコン(東欧経済相互援助会議:COMECON)
経済的にマーシャル=プランに対抗
ソ連・東欧の6カ国参加

1954年:パリ協定
—西ドイツの主権回復・再軍備・NATO加盟を決定
1955年:
☆ワルシャワ条約機構]の成立
ソ連・東欧8カ国が加盟
西ドイツの再軍備やNATOに対抗

(4) 緊張緩和への道
1953年:スターリンの死
→党第一書記にフルシチョフ就任
1955年:
オーストリア国家条約の締結
ジュネーブ四巨頭会談:
米(アイゼンハウアー)・ソ・英・仏の首脳会談
→「雪どけ」(緊張緩和)を促進

(2024/03/08)

      

[ 2 ] 戦後のアメリカ合衆国

(1)冷戦
※ 政治評論家ウォルター=リップマンによる『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、「冷戦」の表現が世界的に広まる

〇トルーマン大統領(民主党:1945〜53年)
1947年:封じ込め政策(当初は政治的・経済的性格に重点)
—ソ連の影響力増大を封じ込めようとした政策
トルーマン=ドクトリンを発表
→ギリシア・トルコ援助声明
マーシャル=プランを発表
—ヨーロッパ経済復興援助計画
タフト=ハートレー法
—労働者の権利を制限 
1948年:米州機構(OAS)の成立
—米と中南米諸国の協力機構
1949年:フェア=ディール政策を実施
—ニュー=ディール政策を継承  
NATO(北大西洋条約)結成
1950年:国連軍の名で朝鮮戦争に参戦
マッカーシズム
—共和党上院議員マッカーシー、非米活動調査委員   会を中心に「赤狩り」

〇アイゼンハウアー大統領(共和党:1953〜61年)
1953年:国務長官にダレスを起用
→「まき返し」政策(瀬戸際政策)を主張(対ソ強攻策)
→対中・ソ軍事包囲体制の形成
朝鮮戦争の休戦協定
1955年:ジュネーブ四巨頭会談に参加
→「雪どけ」へ
1960年:U2型機事件
→米ソ間の緊張

(2)「アメリカの平和」の追求と挫折
〇ケネディ大統領(民主党:1961〜63年)
1961年:ニューフロンティア政策
—ニュー=ディール政策をモデルとする革新政策
「進歩のための同盟」を結成
—キューバ封じ込め(反共同盟)
1962年:キューバ危機
—世界戦争の危機
→平和共存政策へ
1963年: 部分的核実験停止条約を締結
黒人の公民権運動が高まる(キング牧師)
ケネディ大統領暗殺(テキサス州ダラスにて)

〇ジョンソン大統領(民主党副大統領より昇任:1963〜69年)
1964年: 公民権法の制定
—黒人保護のための人種差別撤廃法
1965年:北爆開始
—ヴェトナム戦争の本格化
→米国内、ドル危機、反戦運動高揚
1968年:パリ和平会談開始
→北爆の停止を声明
大統領不出馬宣言、キング牧師の暗殺

(3) ヴェトナム戦争後のアメリカ
〇ニクソン大統領(共和党:1969〜74年)
1971年:ドル=ショック
—金ドル交換停止
→ブレトン=ウッズ体制の崩壊
1972年:ニクソン訪中
—中国を事実上承認
SALTⅠ(第1次戦略兵器制限条約)調印
1973年:パリ平和協定
—アメリカ軍はヴェトナムから撤退
1974年:ニクソン辞任
←ウォーターゲート事件の責任を取って

〇フォード大統領(共和党副大統領より昇任:1974〜77年)
1975年:第1回サミット出席

〇カーター大統領(民主党:1977〜81年)
—人権外交を推進
1978年:エジプト・イスラエルの和平仲介
1979年:米中国交正常化
対イラン(アメリカ大使館員人質事件、〜81年)
対ソ連(ソ連のアフガニスタン介入、〜89年)関係悪化

〇レーガン大統領(共和党:1981〜89年)
—強いアメリカを提唱  
レーガノミックスー所得減税と軍備拡張(SDI)
→双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)を生む
1983年:グレナダ侵攻
1987年:INF(中距離核戦略)全廃条約調印
→ゴルバチョフ訪米・レーガン訪ソ

〇ブッシュ大統領(父:共和党:1989〜93年)
—レーガン路線の継承
1989年:マルタ会談
—ゴルバチョフとの会談(冷戦終結を宣言) 
→ゴルバチョフの訪米(1990)
米軍のパナマ侵攻(ノエリガ将軍逮捕)
1991年:湾岸戦争
←イラク、クウェート侵攻により
1992年:北米自由貿易協定(NAFTA)調印

〇クリントン大統領(民主党:1993〜2001年)
—自由貿易維持と国内経済再活性化とを調和する経済外交

〇ブッシュ大統領(共和党:任2001〜09年)
2001年:対米同時多発テロ(9.11事件)
2003年:イラク戦争
→フセイン政権崩壊

〇オバマ大統領(民主党:2009〜17年)
初のアフリカ系大統領

〇トランプ大統領(共和党:2017〜21年)

〇バイデン大統領(民主党:2021〜)

(2024/03/09)

{ 3 } 戦後のヨーロッパ

(1)イギリス
※ 多大の戦費と海外市場を失う
→債務国に転落
 1945年:アトリー労働党内閣(〜51年)
—重要産業の国有化
社会保障制度の充実(ゆりかごから墓場まで)
 1947年:インド連邦の成立
 1949年:アイルランド共和国成立(英連邦を離脱)
 ※アイルランド問題
 1950年:中華人民共和国を承認
 1951年:第2次チャーチル内閣(保守党〜55年)
 1952年:原爆保有
 1955年:イーデン保守党内閣(〜57年)
 1956年:スエズ出兵(第2次中東戦争)
→非難を浴び撤兵、イーデン引責辞任
 1953年:マクミラン保守党内閣(〜63年)
 1960年:ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)発足
←仏、EEC加盟反対
 1963年:フランスの反対により、EEC加盟交渉不成功
 ヒューム保守党内閣(〜64年)
 1964年:第1次ウイルソン労働党内閣(〜70年)
 1967年:ポンド切り下げ
—対外輸出増大を計る
 1968年:スエズ以東より撤兵(大英帝国の終焉)
 1969年:北アイルランド紛争おこる
—プロテスタント系住民(英系)とカトリック系(アイルランド系:アイルランド共和国軍IRA)の対立
→和平合意(98年)
→北アイルランド自治政府の発足(2007年)
 1970年:ヒース保守党内閣(〜74年)
 1973年:EC加盟
—拡大ECの成立
 1974年:第2次ウィルソン労働党内閣(〜76年)
 1976年:キャラハン労働党内閣(〜79年)
 1979年:サッチャー保守党内閣(〜91年)
—イギリス初の女性首相
 1972年:アルゼンチンとのフォークランド紛争
 1991年:メジャー保守党内閣(〜97年)
 1997年:ブレア労働党内閣(〜2007年)
 中華人民共和国への香港返還
 2007年:ブラウン労働党内閣(〜10年)
 2010年:キャメロン保守党内閣(〜16年)
 2016年:メイ保守党内閣(〜19年)
 史上2人目の女性首相
 2019年:ジョンソン保守党内閣(〜22年)
 2022年:トラス保守党内閣(〜22年)
 史上3人目の女性首相 エリザベス2世崩御
チャールズ3世即位
2022年:スナク保守党内閣(〜)
 インド系出身・非白人としては初

(2)フランス
 1944年:臨時政府ド=ゴール成立
—共産党・社会党・人民共和の支持
 1946年:第四共和国憲法制定
→第四共和国成立(1947年)
 インドシナ戦争(〜54年)
 1954年:ジュネーブ休戦協定
—マンデス=フランス首相の努力で収拾
 アルジェリア戦争始まる(〜62年)
→政局の混乱
 1958年:第五共和国憲法
→第五共和国成立—大統領の権限が強化
 1959年:ドゴール大統領の就任(〜69年)
フランス連合を改組してフランス共同体が成立
EECの中心として、独自の外交を展開
 1960年:核実験(第4番目の核保有)
 1962年:アルジェリアの独立承認
 1964年:中国の承認
 1966年:NATOの軍事機構から脱退
 1968年:五月革命
(学生・労働者を中心とする反体制運動)
 1969年:ドゴール退陣
ポンピドゥー大統領(〜74年)
 1974年:ジスカールデスタン大統領((〜81年)
 1981年:ミッテラン大統領(社会党)左翼政権
(〜1995)
 1955年:シラク大統領(保守政権:〜2007年)
 2007年:サルコジ大統領(保守政権:〜12年)
 2012年:オランド大統領(社会党:〜17年)
 2017年:マクロン大統領(再生RE:〜)

(3)西ドイツ
 1949年:ドイツ連邦共和国の成立(暫定首都ボン)←ボン基本法
 アデナウアー政権(〜63年)—キリスト教民主同盟
  奇跡の経済復興に成功
 1954年:パリ協定調印
—主権回復・再軍備承認
 1955年:→NATO加盟
 ソ連と国交回復
 1961年:東ドイツがベルリンの壁構築
→ベルリン危機
 1963年:エアハルト政権(〜66年)
 1966年:キリスト教民主同盟・社会民主党の大連立時代(〜69年)
 キージンガー首相(キリスト教民主同盟)
 ブラント外相(社会民主党)
 1967年:ルーマニア国交回復
 1969年:社会民主党・自由民主党の大連立時代
(〜82年)
ブラント政権(〜74年)の東方外交を推進
—ポーランド・ソ連・東ドイツ・チェコと条約締結
1970年:ソ連=西ドイツ武力不行使協定
1970年:西独=ポーランド条約
—オーデル=ナイセ線の国境画定
1972年:東西ドイツ基本条約
→東西ドイツの国連加盟:1973年)
 1974年:シュミット政権(〜82年)
 1982年:コール政権(〜98年)
 1989年:ベルリンの壁崩壊
  東西ドイツの通貨同盟成立
 1990 東ドイツとの統一
←東欧革命
 国名:ドイツ連邦共和国
    大統領ワイツゼッカー、首相コール
 1998年:シュレイダー首相(社会民主党:〜2005年)
 2005年:メルケル首相(キリスト教民主同盟:〜21年)
初の女性首相
2021年:ショルツ首相(社会民主党:〜)

(4)南欧諸国
〇 イタリア
1946年:王政廃止(人民投票により)
→イタリア共和国の成立(キリスト教民主党)
1947年:パリ講和条約
→すべての植民地を放棄
1949年:NATOに加盟
1970年代:イタリア共産党の活躍
(ユーロコミュニズムの中心)
→衰退(80年代)

〇ポルトガル
1932年:サラザール独裁政権(〜68年)
1974年:ポルトガル革命
→社会主義政権誕生(1976年)
1986年:ECに加盟

〇スペイン
1975年:フランコ死亡(独裁政権:1939〜75年)
→スペイン=ブルボン朝の復活
(ファン=カルロス1世)
1982年:社会主義政権の成立
1986年: ECに加盟
1992年:バルセロナ・オリンピック開催

〇ギリシア
1946年:王政復古(英・米の支持)
—左右両派の抗争(内戦:1946〜49年)
1952年:NATOに加盟
1973年:軍部のクーデター
→軍事独裁政権
1974年:民主政復帰
—カラマンリス大統領(新民主主義党ND)
国民投票により王政廃止→共和政樹立
1981年:ECに加盟
左派政権樹立(〜89年)
—全ギリシア社会主義運動(PASOK)
(パパンドレウ首相)
2001年:ユーロ導入
2004年:アテネオリンピック開催

(5)北欧諸国
〇デンマーク
1949年:NATOに加盟(原加盟国)
1950年:中華人民共和国を承認
1959年:EFTA(欧州自由貿易連合)の結成に参加
1973年:ECに加盟

〇ノルウェー
1949年:NATOに加盟
1959年:EFTAの結成に参加

〇スウェーデン
1948年:西ヨーロッパ連合への参加表明
→中立政策を堅持
1959年:EFTAの結成に参加
1995年:EUに加盟
2024年:NATOに加盟

(6)西ヨーロパの統合
 1950年:シューマン=プラン提唱
—仏外相シューマンが提唱した経済協力機構
 1951年:ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)]調印(初代委員長モネ)
—石炭・鉄鋼の完全統合と共同運営
(仏・西独・ベネルクス3国・伊)
 1957年:ヨーロッパ経済共同体(EEC)調印
(ローマ条約:58年発足)
 —ヨーロッパの共同市場の設立
→ヨーロッパ統合の基礎
 ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)結成
 —原子力資源の統合管理
 1959年: ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)発足(英など7カ国)
—EECに対抗して、工業製品の共同市場
 1967年:ヨーロッパ共同体(EC)成立
—EEC, ECSC , EURATOMの統合(理事会・委員)           
 —関税同盟、農業共同市場(政治面も視野)
 1973年:拡大EC発足
—英・アイルランド・デンマークの加盟
(1981年ギリシア加盟→1986年スペイン・ポルトガル加盟:12カ国)
1992年:マースリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)調印
—市場統合から政治統合を目指す
(欧州連合結成に一歩前進)
 1993年:ヨーロッパ連合(EU)の発足
—EC12カ国
(1995年オーストリア・フィンランド・スウェーデンが加盟)
 (2004年バルト3国、旧東欧諸国など加盟)
 (2007年ブルガリア・ルーマニア加盟)
2002年:ユーロ(共通通貨)の導入
(英・デンマーク・スウェーデンは不参加)

<ドイツ統一の流れ>

※ 東欧改革が契機
 1989. 1 ブッシュ政権誕生
  5. NATO創設40周年記念サミット
—軍縮提案、西ドイツ訪問
  6. ゴルバチョフ西ドイツ訪問
—独ソ共同宣言
 『新思考』外交
—ヨーロッパ共通の家
 ハンガリーに大量の東ドイツ市民の流入
 —5月にオーストリアとの国境の鉄条網を撤去「緑の国境」から西側に脱出
  9.東ドイツ国内での改革要求(デモ)
「我々は一つの国民だ」
  10. 東ドイツ—ホネカー退陣
  11.「東ドイツ、国境を開く」
—ベルリンの壁の開放
  12. マルタ会談(米ソ)
—冷戦終結宣言  
ミッテラン(仏)
—「ヨーロッパの均衡」と歩調、EC統合強化
—フランスの存在感を示し、ヨーロッパ統合を進めることが狙い
サッチャー(英)
反対—英仏協調の可能性を探る
ブランデンブルク門が開放され、東西ドイツ国境は自由通行
 1990.7. 通貨統合(西ドイツ主導:1対1の交換)
 —(東西ドイツ)プラス四(米・英・仏・ソ)をドイツ統一の交渉方式
 対ソ説得強化(金融支援要請に応じる)
 —ソ連、統一条件として、NATOがソ連よりに拡大しないことを条件
 対仏(ミッテラン)コール(独)がECの経済通貨統合で譲歩、
 政治統治の促進も決定
「老いた夫婦」のように振る舞おう
(ミッテランのメッセージ)
  8. 両独統一条約を正式調印
  9. 両独と対独戦勝4カ国、承認
  「ドイツ問題の最終解決に関する条約」調印
  10.3 東西ドイツの統一
(東独が西独に編入形式)
→冷戦の終結

(2024/03/10)

[ 4 ] 戦後のソ連・ロシア

(1) スターリン時代

1946年 第4次五カ年計画(〜50)
1947年 コミンフォルム結成
1949年 コメコン(COMECON)(東欧経済相互援助会議)の結成
原爆保有宣言→水爆実験(1953)
—アメリカに対抗
1950年 中ソ友好同盟相互援助条約
1953年 スターリンの死→集団指導体制

(2)スターリン後

〇 フルシチョフ時代(1953〜64)

1953年 フルシチョフ共産党第一書記(〜64)
マレンコフ首相(〜55)→ブルガーニン首相(〜58)—平和共存政策
1955年 ワルシャワ条約機構(東欧8カ国友好相互援助条約)を結成
1956年 フルシチョフの「スターリン批判」(ソ連共産党第20回大会)
—平和共存政策の推進を強調
コミンフォルム解散→東欧諸国、自立の動き
ポーランド・ハンガリーの反ソ暴動
1957年 ICBM(大陸間弾道)・人工衛星(スプートニク)に成功
1958年 フルシチョフ首相兼任(〜64)
1959年 フルシチョフ訪米—キャンプ=デーヴィッド会談(アイゼンハウア−)
中ソ技術協定破棄→中ソ論争へ
1962年 キューバ危機→部分的核実験停止条約(63:米・英・ソ)

〇 ブレジネフ時代(1964〜82)
—国内の経済建設と対米軍事的均衡を目指す
1964年 フルシチョフ解任→ブレジネフ(党第一書記)・コスイギン(首相)
反体制派知識人を弾圧(ソルジェニーツィン・サハロフなど)
1968年 チエコ事件—チエコスロヴァキアへのソ連の軍事介入
→「プラハの春」(ドプチエク)の崩壊
1969年 中ソ国境紛争
1979年 アフガニスタンに軍事介入

〇 アンドロポフ時代(1982〜84)・チェルネンコ時代(1984〜85)

〇 ゴルバチョフ時代(1985〜1991)
—国内の経済改革を目指す
書記長(1985)→最高会議議長(1989)→大統領(1990)
ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(公開)・民主化
「新思考」外交
1989 アフガニスタン撤兵を完了→中ソ和解、東欧の民主化を容認
マルタ会談—アメリカ大統領ブッシュ
1991年 保守派のクーデター→失敗、ソ連共産党解散
バルト三国(リトアニア・ラトヴィア・エストニア)独立承認
ソ連邦消滅→独立国家共同体(CIS)

(3) ロシア(CIS)

1990年 エリツィンがロシア共和国最高会議議長に就任
1991年 エリツィン、ロシア共和国初代大統領に当選→市場経済化
1999年 プーチン首相就任
→大統領(2000〜08)→首相(2008〜12)
→大統領(2012〜現在)
メドヴェージェフ(大統領2008〜12;首相2012)
2022年 ロシア、ウクライナ侵攻(2月〜) 

(2024/04/24)

[ 5 ] 戦後の東欧諸国

(1)スターリン時代
・人民民主主義国家
—共産党を中心に社会主義への移行を目指す
→ソ連の衛星国化
チェコスロヴァキア・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア
アルバニア・ユーゴスラヴィア・ルーマニア
・ソ連との結合 
コミンフォルム(1947)
→コメコン(1949)
→ワルシャワ条約機構(1955)
・ティトーのユーゴ、コミンフォルムから除名(1948)
→独自の外交(非同盟主義)

(2) スターリン以後
—スターリンの死(1953)
 ・東ベルリン暴動(1953)
・フルシチョフのスターリン批判(1956)
→ポーランドの反ソ暴動(1956)
—ポズナニで自由化を求める運動
ゴムルカ政権成立、一時自由化を推進
→ハンガリーの反ソ暴動(1956)
−ブタペストで自由化要求
一時ナジ=イムレが首相
—ワルシャワ条約機構の脱退を表明
→ソ連軍の介入・鎮圧((1956)
・チェコ事件(1968)
—ブレジネフ・ドクトリン(東欧諸国の主権制限論)
—ドプチェク第一書記による自由化(プラハの春)
→ソ連軍が軍事介入→民主化・自由化路線の挫折
・ ポーランドの自主管理労組「連帯」運動(1980〜81、89)
1980年 自主管理労組「連帯」が結成(ワレサ議長)
1981年「連帯」非合法化→合法化(1989:選挙で勝利)
・ ゴルバチョフ時代(1985〜1991)
—東欧の民主化支援
・東欧革命(1989)
・ポーランド・チェコ・東ドイツ・ルーマニア・ブルガリア
→共産党の一党独裁体制の放棄
・「ベルリンの壁」解放
→ドイツ統一(1990)
・ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊
・ ソ連邦解体以後—民族問題の表面化
・ユーゴスラヴィア
→スロベニア・クロアティア両共和国の独立宣言(1991)
→ユーゴから分離・独立(1992)
・セルビア・モンテネグロ両共和国、
−新ユーゴスラヴィア連邦の創設 (1992)→旧ユーゴスラヴィアの解体
・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ問題
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国内に混在するセルビア人、
クロアティア人、モスレム人(イスラム化したスラブ人との間の武力衝突
→国連の介入
・チエコスロヴァキアの解体(1993)
—チエコとスロヴァキアに分離・解体
→チェコ大統領にバベル就任

(2024/04/25)

[ 6 ] 戦後の中東諸国

(1)トルコ
1947年 トルーマン=ドクトリン
→経済援助を受ける
1952年 NATO(北大西洋条約)に加盟
1955年 METO(バグダード条約機構)参加
—反共軍事同盟(トルコ、イラク、イギリス、
パキスタン、イラン)
→イラク革命(1958)により崩壊
1959年CENTO(中央条約機構:METO改組)
に参加—反共軍事同盟
→イラン革命(1979)により解消
1964年 キプロス紛争
(キプロスは1960年英から独立)
—トルコ系住民(北)とギリシア系住民(南)との対立、内戦
→国連平和維持軍の出動(南北に分断)

(2) エジプト
1945年 アラブ(諸国)連盟]結成—エジプト中心
1948年 パレスティナ戦争(第1次中東戦争〜49)の敗北
1951年 対英同盟条約破棄
1952年 エジプト革命
—自由将校団(ナギブ・ナセル)が断行
→国王ファールーク1世追放(王政廃止)
1953年 エジプト共和国成立(大統領ナギブ)
1954年 ナセルのクーデター(ナギブ大統領追放)
1956年 ナセル、正式大統領就任
スエズ運河国有化宣言
・契機:
アスワン=ハイダムの建設援助を米・英が拒絶
→スエズ戦争(第2次中東戦争)が勃発
—イスラエル・英・仏がエジプトへ出兵
→国際世論の批判により撤兵
1958年 アラブ連合共和国成立
(シリアとの合併:エジプト主導大統領ナセル)
→シリアの反発、離脱(61)
1967年 第3次中東戦争
→シナイ半島・アカバ湾を失う
1970年 サダト大統領就任(〜81)
—ナセルの死により
1973年 第4次中東戦争
—エジプト・シリア、イスラエルへの先制攻撃
1977年のイスラエル訪問→中東和平会談(1978)
1979年 エジプトーイスラエル平和条約
—カーター米大統領の仲介で締結
→アラブ世界で孤立
1981年 サダト暗殺
→後任にムバラク大統領(親米独裁政権〜2011エジプト革命)
1982年 シナイ半島を返還
2012年 ムルシ大統領(〜2013年)
2014年 アッ=シーシー大統領(〜現在)

(3) イラン
1951年 イラン石油国有化
モサデグ首相(任1951〜53)
—アングロ=イラニアン石油会社(英)の施設を接収・国有化
=資源ナショナリズム
(自国の資源を自国で管理・開発)
1953年 国王派クーデタ
−親米派によりモサデグ政権崩壊
「白い革命」
—国王パフレヴィー2世の上からの近代化  
石油収入・米の援助
→経済成長(貧富の差・イスラム勢力弾圧)
1955年 METO(バグダード条約機構)に参加
→イラク革命(1958)により崩壊
1959年CENTO(中央条約機構)に改組、参加
1979年 イラン=イスラム革命
—イスラム原理主義を掲げるホメイニ師が指導
国王パフレヴィー2世の亡命
→パフレヴィー朝滅亡・CENTO崩壊
イラン=イスラム共和国]成立
—最高指導者ホメイニ
→イランのアメリカ大使館人質事件
(カーター米大統領:〜81)
1980年 イラン=イラク戦争(〜88)
—イラク(フセイン政権)の侵入
1989年 ホメイニ師死去
→後継最高指導者ハメネイ師(2005〜大統領アフマディーネジャド)

(4) イラク
1958年 イラク革命(軍部カシム)
→王政(親英ハーシム家)廃止、METO脱退
1963年 バアス党政権(アラブ民族主義)成立(〜2003)
1979年(サダム=)フセイン大統領就任
1980年 イラン=イラク戦争(〜88)
1990年 クウェート侵攻
1991年 湾岸戦争(米大統領父ブッシュ)敗北
2003年 イラク戦争(米大統領ブッシュ)敗北
→フセイン政権崩壊(2006処刑)
 

<パレスチナ問題(中東問題)>

1947年 国連のパレスチナ分割案決議
 米・ソは賛成、英棄権、アラブ連盟(1945結成)は反対
1948年 イスラエル共和国の建国
(初代首相ベングリオン)
→パレスチナ戦争(第1次中東戦争)の勃発 
—イスラエル共和国の建国を認めないアラブ連盟諸国が開戦 
→アラブ連盟諸国の敗退
→パレスチナ難民の出現
1949年 イスラエル共和国、国連に加盟
1956年 スエズ戦争(第2次中東戦争)
—ナセル大統領のスエズ運河国有化宣言を契機に開戦
→イスラエル・英・仏が出兵
→国際世論の批判により撤退
→アラブ民族主義高揚
(ナセル、アラブ世界のリーダーに)
1960年  OPEC(石油輸出機構)結成
1964年 パレスチナ解放機構(PLO)の設立
—イスラエルに土地を奪われた難民がパレスチナ解放のために組織
アラファト議長(ファタハ)を中心にイスラエルとゲリラ闘争を展開
1967年 第3次中東戦争(六日間戦争)
—イスラエル先制攻撃、圧勝
→シナイ半島占領→アラブ側敗北
・エジプトからシナイ半島・アカバ湾・ガザ地区を獲得
・ヨルダンからヨルダン川西岸獲得
・シリアからゴラン高原獲得
1968年 OAPEC(アラブ石油輸出機構)結成
1973年 第4次中東戦争(十月戦争)
—失地回復を目指すアラブ側の攻撃
OAPEC の石油戦略
→第1次石油危機(オイルショック)
1979年 エジプト=イスラエル平和条約
・エジプト大統領サダト
・イスラエル首相ベキン
・アメリカ大統領カーターの仲介
→アラブ諸国・PLO、エジプトと断行
→サダト暗殺(1981)
1982年 イスラエルのレバノン侵攻
→PLOのレバノン退去(拠点チュニジアへ)
1987年 パレスティナ住民の抵抗運動
(インティファーダ)高まる
 —ハマス(イスラム組織:武装闘争)設立
1988年 PLO、パレスティナ国家樹立宣言
1993年 PLOとイスラエル、国交樹立
—パレスチナ暫定自治協定
—イスラエルラビン首相・PLOアラファト議長、
米大統領クリントン仲介
1994年 ガザ地区・ヨルダン川西岸(イェリコ)での先行自治開始
1995 ラビン首相暗殺→(イスラエル首相:ペレス(〜96)、
ネタニヤフ(96〜99)、バラック(99〜2001)、シャロン(2001〜2006)、
ネタニヤフ(2006 〜)

1996年 パレスチナ自治政府
—大統領アラファト就任(ファタハ:穏健路線)
2004年 アラファト死去
→アッバース大統領(2005〜)
2006年 ハマス、パレスチナ自治政府(第1党)
→ハニヤ首相就任
→ファタハとハマスの対立激化、内戦化
→ハマス、ガザ地区占拠・実行支配(〜)
→ファタハ、ヨルダン川西岸支配(〜)
分裂状態(ファタハ、パレスチナ自治政府として、国際社会の承認)

2023年10月7日
ハマスによる大規模な奇襲攻撃
→イスラエル軍によるガザ地区への激しい空爆と地上侵攻。

(2024/04/26)         

[ 7 ] 戦後のアフリカ諸国

[ 8 ] 戦後のラテンアメリカ

[ 9 ] 戦後の中国

[ 10 ] 戦後の朝鮮

[ 11 ] 戦後の東南アジア

] 12 ] 戦後の南アジア

第15章 地域史

[ 1 ] 朝鮮

[ 2 ] 東南アジア

[ 3 ] アフリカ

[ 4 ] 東欧諸国

[ 5 ] 北欧諸国

[ 6 ] ラテンアメリカ(19世紀〜20世紀初め)

[ 7 ] カナダ

[ 8 ] オーストラリア・ニュージーランド

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